遣らずの里 (十六)

 それまでの緊迫感などまるで無視した涼しい風情でそこに立つ槐に、闇蜘蛛は注意深く伺うように、ざわざわと脚を蠢かせた。
 槐は葵をそのままに、散歩でもしているような足取りで、数歩を進み出る。すると驚いたことに、闇蜘蛛がそのぶん退いた。
 なんとか木を支えに立ち、その様子を見ていることしかできない葵は、ただ目を瞠っていた。
「何やら厄介なものが人の世で暴れていると聞いた。それはおまえか」
 宝刀を無造作に肩にかついだまま、槐は闇蜘蛛の巨躯を見上げた。
 隙だらけにしか見えないその様子に、しかし闇蜘蛛は、ぐるる、と喉の奥を唸らせて警戒するように赤い眼を明滅させた。
 槐は闇蜘蛛をじっと見つめ、いたって気楽に続ける。
「成程。おまえとて、なりたくてそうなったわけではないようだな。しかしだからといって、好き放題にされると少々困る者達がいるらしいぞ?」
 闇蜘蛛の低い唸りは続き、鉤爪の脚ががりがりと地を掻く。苛立っているようにも見えるその仕種の後、いきなり闇蜘蛛は後方に大きく跳ねた。その巨躯からは想像もつかないほどふわりと身軽く跳ぶと、大木の上方に取りつく。幾つもの赤い眼が槐をとらえ、威嚇音と思われる声を低く鳴らした。
 その様子を地上から見上げ、槐は薄く笑った。
「そうか。大人しく引き下がる気にはならんか」
 その遣り取りの最中、葵は妙に槐が白っぽく見えて、目をしばたかせた。そもそも視界があまりさだまっていないから、錯覚かもしれないとも思ったが、どうやら違う。
 槐の身体から、陽炎のような白い光が立ちのぼって見える。
 人ならぬものを視るようになってから、妖のまわりにああいう光のようなものを感じることはあった。それを何と呼べば良いのかは分からないが、それはそのものの持つ力や性質を、端的に象徴するものだと解釈していた。
「では、ひとつりあって決着するとしよう。かかってくるがいい。衰えたとはいえ、まだまだおまえ程度にひけはとらんぞ」
 槐は太刀を肩から下ろし、挑発するように切っ先を闇蜘蛛に向けた。その姿は、今やはっきりと、強く揺らめく白い焔に取り巻かれていた。妖気か、闘気か──その揺らめく黒髪や墨染めの衣が色を失って見えるほど鮮やかな白焔。
 葵は槐がどういう存在なのか、よく知らない。夜光の実の父親であること、力の強い夜叉の一族であることは聞いていたが、それだけだ。
 もはや妖の域を脱しているあの闇蜘蛛をどうにかできるのかと、葵は固唾を呑んだ。
 木の上から威嚇していた闇蜘蛛は、その身をたわめるようにして、一気に地上の槐に踊りかかった。その巨体から考えれば信じがたい速さだった。
 太刀を下段に構えて、槐はそれを迎え討つ。ひときわ白焔が高揚し、それは弧を描いて斬り上げる美しい軌道ではしった。
 身の毛のよだつような叫び声が上がり、闇蜘蛛は再び高く跳ぶ。ばたばたっと地面に何かが落ちてきた。それは何かと目を凝らして、葵は息を飲んだ。
 数えて三本の闇蜘蛛の脚。地面の上でひくついているそれには見向きもせず、槐は太刀を下ろし、一見無防備にも見える無為自然の構えで闇蜘蛛を見上げた。
「ほほう、呪詛対決か。いいぞ。面白い」
 槐は何やら愉快そうに、闇蜘蛛に語りかける。
「おまえの纏う呪詛と俺の纏う呪詛、どちらが強いかな。言っておくが、神とはいえ、俺にたやすく勝てると思うなよ」
 まばゆいほどの月を背に、高い木の上で、幾つもの赤い目が燃えるように揺らめいている。ぎぎ、という耳障りな威嚇音がした。
 今度は闇蜘蛛は、一息に襲いかかろうとはしなかった。木立から木立へと伝い、距離を詰めたかと思うと一瞬のうちに飛び退いて離れる。その合間ごとに、葵では目で追えない速さで鉤爪を繰り出し、振るう。
 しかしそのいずれの攻撃も、その場をほとんど動かない槐の太刀に、悉くいなされ捌かれてゆく。闇蜘蛛の巨体と鉤爪が巻き起こす風に、黒髪や装束だけが踊るようになびく。
 槐の動きも、葵にはまともに追うことができなかった。だが恐ろしく無駄と隙のない、美しいとさえいえるほどの立ち回りであることだけは分かった。
 じきに決着のときは来た。更に脚を何本か斬り落とされ、動きが格段に鈍った闇蜘蛛へと、今度は槐の側から一気に間合いを詰める。そのとき、初めて槐は跳んだ。高く構え、振り下ろされる太刀が峻烈な白焔を纏い、一息のもとに闇蜘蛛の巨体は斬り裂かれた。
 ぐにゃり、と闇を纏った巨体の輪郭が歪む。山々の大気を、夜空を、名状しがたい断末魔の咆哮が揺るがし、歪み膨れ上がった闇蜘蛛の身体が四散した。
 蜘蛛の象をした闇が散り散りになってゆく中に、葵は不思議なものを見た。闇の残滓の中から、きらきらと光る小さな何かが、すうっと夜空に上がってゆく。それは目指すところがあるように、流れ星のように山のどこかに落ちていった。
 槐は何も言わなかったが、やはりその光を目で追っていた。
 完全に闇蜘蛛の残滓が消え失せるのを見届けてから、槐は葵の方に戻ってきた。
「待たせたな。どうだ、具合は」
 どうということもなさげな調子で声をかけられ、葵は張り詰めていた糸が一気に切れた。膝が折れ、その場にくずおれる。その動きにすら全身が痛みで軋んだ。中でも燃えるように感じる左腕を抱え込み、切れ切れに呻いた。
 槐は葵の前に屈むと、その腰から鞘を外し、穢れひとつ無い太刀を収めて傍らに置いた。
「腕を落とされたか。荒ぶる山神に楯突いたにしては、安くすんだな」
 槐の言葉に、葵はなんとか視線を上げた。
「俺のことより、夜光を……」
 喉も、身体の内側も焼けるように熱く、何かに腹を掻き回されているように吐き気がする。かろうじでそれだけを言うのがやっとだった。
 本当は、自分が夜光を助けたい。今すぐにでも助け起こしに行きたい。だがもう、身体がいうことをきかない。
 そんな葵に、槐はふと、小さく笑った。
「夜光は気を失ってはいるが、大事ない。案ずるな」
 それを耳にした途端、安堵が一気に葵の意識を闇に引きずり込んだ。自分の身体が揺らいだ自覚すら持てず、葵は気を失った。


 葵はひどく苦しい悪夢の中にいた。
 全身が炙られているように熱く、どこもかしこも悲鳴を上げたいほど痛む。呼吸をすることにすら怯えてしまうのに、息をしなければもっと苦しくなる。それで余計に、混乱と気がふれそうな恐怖が襲ってくる。
 ──熱い。痛い。痛い。苦しい。いったい、何がどうなっている?
 朦朧として何も分からず、ただ呻いていた。そこにひやりと、ひどく心地良い冷たさがふれてきた。
 どうやら額に誰かがふれている、と、やっとぼんやり理解する。炙られるような熱さが、その冷たくて柔らかな掌のおかげで、じわりじわりと後退してゆく。
 苦しさの全部がそれで追いやられるわけでは無かったが、少し苦痛が軽くなるだけでも、随分と楽になった。なんとか落ち着いて息が出来る程度になり、そうなった途端、さらに深い闇の中へと意識も五感も墜落した。


 そんなことを何度も繰り返し、葵はふと、自分が瞼をうっすら開いていることに気付いた。
 視界が完全に、発熱と苦痛による涙と汗でぼやけている。地面の底に引きずり込まれそうなひどい脱力感があって、首の角度を僅かに変えることすら出来なかった。
 そのぼやけきった視界の中に、見覚えのある色彩があった。月光を紡いだような、真珠のように柔らかな白と、透き通って煌めく紫水晶の色。
 徐々に焦点が合ってきて、それでもまだだいぶかすんではいたけれど、そこにあるのが夜光の泣き顔であることが分かった。
「…………夜、光」
 名前を呼んだつもりだったが、しわがれた喉からは、蚊の鳴くような声しか出なかった。それでも、夜光には届いたらしい。何か言葉をかけられているのは分かったが、ひどく朦朧として、内容が理解出来なかった。
 だから葵は、ずっと気になっていたことを、なんとか声を絞り出して口にした。
「怪我は……大事、ないか……」
 やはりうまく声が出ない。だが、夜光が何度も頷くのがぼんやり見えた。それでふっと、気が緩んだ。
 泣くなと言いたかった。夜光が泣くのを見るのは、自分が泣くことよりもつらい。だがそれを言えないまま、再び葵の意識は闇に沈んだ。


 何度かそんな、夢とうつつを行き来することを繰り返したように思う。熱く苦しい中で意識が浮上したときに、誰かと何かを話し、受け答えしているような気もするのだが、あまりよく覚えていなかった。
 そのうち、ふっと。今までにない穏やかさで目が開いた。
「…………?……」
 眩しくはない程度に、視界が明るい。炙られるような熱さがひいていた。あまり苦労せず首を傾けることができて、すぐ傍ら、葵の寝具に突っ伏すようにして眠り込んでいる夜光が見えた。その額から、角はなくなっていた。
 夜光の近くにあった右手に力を入れてみると、意外にすんなりと反応した。ゆるゆると持ち上げて、夜光の頬にふれてみる。夜光の淡い光を宿す乳白色の睫毛が揺れ、すぐにハッと瞼が開いた。
 透き通る何より美しい紫の瞳が、葵を見つめる。
「……葵……?」
 みるみるうちに、子供のようにその両目に大粒の涙が浮かんだ。ぼろぼろとそれが頬に零れるのを、手で拭ってやろうとしたが、そこまではまだあまり器用に指が動かなかった。その手を、夜光の白い指がつつみこんだ。
「もう、大丈夫……みたいだ」
 相変わらず声は弱くかすれていたが、はっきりとそう発音することができた。夜光が何度も頷いてしゃくりあげ、体重はかけないようにしつつも、こらえきれないように首元にしがみついてくる。そして、声を上げて泣き始めた。
 こんなふうに人目も憚らずに泣く夜光を、葵は初めて見た。震えている夜光の柔らかな髪を、ただ撫でてやる。今は、これ以上のことをしてやれないのがもどかしい。
 ほぅ、と、ゆっくりと長く息を吐いた。
 ──生きている。夜光も、自分も。
 その実感が、ようやく少しずつ湧き上がってきた。夜光を失わずに済んだことへの深い安堵が、葵の目頭も熱くした。
 なんとか右腕を動かして、葵も夜光の背中を抱き締めた。

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