日毎に寒さが増し、山の中には雪がちらつくことも増えた。
葵の全身の傷は順調に癒えていったが、一度完全に切断されてしまった左腕だけは、さすがになかなか包帯と固定が取れなかった。とにかく感覚が通わず、自分の腕というよりも、ぶら下がった重いモノのように感じる。
しかしようやく指先から僅かずつとはいえ動かせるようになってくると、喜びと安堵もひとしおだった。少し動かすだけでも腕全体に強い痛みが走ったが、それをこらえて、葵は毎日腕を動かす訓練に励んだ。
そんなある日、槐が岩室に数日振りに戻って来た。葵の状態を確認すると、頷いて槐は言った。
「悪くはないな。痛みを嫌って動かさないと、動かないまま組織が癒着する。そうなったら、せっかく繋がった腕も台無しだ。まあ、気合いで動かせ。そうすればいずれは元通りになる」
「はい」
葵が真剣な顔で頷くのを見ると、槐は何を思ってか、ふっと笑った。
「神の眼を射貫いた腕だ。大事にしろ。それに腹を立てたから、山神もおまえの腕を落としたんだ。その傷も痛みも、誉れくらいに思っておけ」
これは激励してくれているのだろうかと、葵はますますかしこまって、「はい」と頷いておいた。存在そのものの桁が違うのは槐も同じで、その槐にそう言われることはどこか誇らしく、痛みに萎えそうになるときもある気持ちも奮い立った。
「さて。では、そろそろ俺は行くとしよう。もうここに来ることはないから、あとは夜光がよく看てやれよ」
そういって立ち上がった槐に、あ、と夜光が声をあげた。そのとき手にしていた繕い物を置いて、槐のもとに足を運んでゆく。
「お父様。もう行ってしまうのですか?」
「もう俺の手は必要ないし、そうなれば長居をする必要もないからな。俺にぞっこんな麗しき天女殿も、だいぶしびれを切らしているようだ」
本気か冗談かわからないことを槐は言って、岩室の出口に向かう。そこで振り返り、ついてきた夜光を見下ろして仕方なさそうに笑った。
「縁があればまた逢えるだろう。そう泣きそうな顔をするな、夜光」
「な……泣きそうになんてなっていません」
夜光はむっと目をつりあげる。はは、と槐は笑って、夜光の乳白色の頭を軽く撫で、長い黒髪と墨染めの衣を冬の陽差しにひるがえした。昨夜降っていた雪があたりを白く染めて、そこに立つ槐の姿はひときわ映えて見えた。
「葵の具合が良くなったら、ここから立ち去る前に、一度あの里に寄ってみるがいい。悪いようにはなっていないはずだ」
「耶麻姿の里ですか?」
「うむ。さすがにぼんくらな人間どもも、今回の顛末については理解したと見える。まあ、暴れていた山神があれきり現われず、一緒に山に入ったはずのおまえたちも戻らないとなれば、察するものがあったんだろうな。今度のことは、おまえたちの手柄にしておけ」
そう言い残すや、夜光や葵に何を言う間も与えず、つむじ風が吹いて槐の姿はその中に消えていってしまった。
「……もう少しくらい居てくださっても良いのに……」
戻ってきながら、夜光がしょんぼりと肩を落とした。傍まで来た夜光の手を取ってやり、葵はなぐさめるように言った。
「でも、思わぬところでお会いできて良かったじゃないか。お元気そうだったし、俺達のためにわざわざ蓬莱まで来るのを許して下さったなんて、思っていたより天女殿も槐殿には甘いのかもしれないな」
槐は今は、本来であれば陵という名の天女のもとに居るはずだった。槐にとっては身を蝕む呪詛の解除、陵にとっては稀有な呪詛の研究と、互いの利害が一致したことから、あえて槐は陵に囚われることを承諾したのだ。
「……そうですね。お会い出来ただけ、良かったかもしれません」
下手をしたら陵の気分次第で、もう当分の間会うことは出来ないかもしれないと思っていた槐だけに、夜光も気を取り直したようだった。
岩室を借りてしつらえたささやかな住居を見渡して、夜光はふと、寂しげに呟いた。
「長様にも、一目お会いできたらいいのに」
久し振りに父親である槐に会えたことや、長が手配してくれた道具類を見ているうちに、夜光の中に里心が呼び起こされてしまったようだった。今回かつてなく危険な目に遭ったことも、夜光を弱気にさせたのかもしれない。
「一目といわず、里帰りすればよくないか」
何気なく思い付いて言うと、夜光がひどく驚いて葵を見た。
「里帰り? 良いのですか、そんなこと?」
「いけないのか? 家を出た後でも、何かの折に実家に顔を出すことは、蓬莱だとそう珍しくもないんだが」
あまりに驚かれてしまい、葵もその反応に驚いた。蓬莱、すなわち人間の風習を持ち出すのも夜光には馴染まないのかもしれないが、親しい身内に会いたいと思うものを無理に我慢する必要もないのではないかと思う。既に葵にはその身内も無いからこそ、余計にそう思うのかもしれない。
「長殿も、帰ることを禁じてはいなかっただろう。そうすぐに帰っていたのでは格好が付かなかっただろうが、この冬が明けたら、終の涯を出てもう一年になる。たまに懐かしくなったときくらい、少し顔を見に戻っても罰は当たらないんじゃないのかな。長殿も、夜光の顔を見たらさぞや喜ばれると思う」
葵の言葉を聞くうちに、みるみる夜光の雪白の頬が紅潮し、紫の瞳が明るく輝き出した。だがまだ決心がつかないように、自信なさげに視線を泳がせる。
「そ、そうでしょうか……長様に叱られたりしないでしょうか」
それを聞いて、思わず葵は吹き出してしまった。
「叱るものか。でももし叱られるんだったら、俺が夜光の分も叱られてやる。どのみち俺は、今回のことでお叱りを受けそうだから」
途中からは苦笑になってしまった。終の涯の長の、あの夜光への可愛がりようを見ていると、会えば葵が注意を受けないわけがないと思う。それは甘んじて受けるべきものでもあるだろう。
「そんな。葵が叱られるのでしたら、私も一緒に叱られます。今回のことは、葵だけが悪いのではありません」
懸命に言う夜光が可愛らしく、微笑ましく、葵はくすくす笑った。
「それじゃあ、一緒に叱られに帰ろうか。春になったら」
夜光はまだ戸惑っていたようだったが、葵にそう言われると、やがて頬を紅潮させながら、うつむきがちにこくりと顎を引いた。
「はい……春になったら」
「よし。決まりだ」
葵は夜光の身を引き寄せた。まだ左腕はあまり思うように動かなかったが、心を込めて夜光の薄い身体を抱き締める。
夜光も葵の腕の中で、はい、と頷きながら、ほころぶように微笑した。
冬の間は、山中では雪が降っていることが多く、火鉢が欠かせない日々が続いた。
夜光と葵の二人きりで春を待ちながら過ごす日々は、静かで穏やかだった。この機会に、旅に必要な道具類や衣類の手入れをしたり、修繕をしたり、新たに作ってみたりする。二人で昔語りやたわいもない話をして過ごしたり、差し入れの中にあった書物を読んでみたり。雪の降っていない日は、採取と運動がてら、雪歩き用の履き物を作って、周囲の散策に出ることもよくやった。
どうやらこのあたりは、耶麻姿の里も含めて人里からは少々遠いようで、わりあい近くを街道が通ってはいたが、人間に会うことは一度もなかった。
そんな日々の中、雪の上にふわりと黄金の八咫烏が舞い降りてくることがあった。それは終の涯の長の使い魔で、二人が凍えたり飢えることのないように、定期的に必要なものを届けてくれる。こうした状況での、初めての蓬莱での越冬に、それは心からありがたかった。
ひときわ寒さが厳しくなり、あたりが雪深く覆われてしまうと、火鉢の音だけがする静けさの中、二人でただ寄り添って過ごすことも増えた。
そんなふうに冬を過ごすうち、やがて山のどこかで咲く梅の香が、雪景色に混ざるようになった。
次第に陽光がぬくみを増し、降雪が減り、よく陽の当たる場所では雪がとけて地表が顔を出すようになる。夜光は今年初めての鶯の声を聴いたとき、思わず葵にも声をかけて、枝を伝って煌めく雪の玉水を眺めながら、しばらく二人でその軽やかな鳴き声に耳を傾けていた。
そして雪の下から名も無い野の花が顔を出し、草木がいっせいに芽吹き始めた頃。夜光と葵は、荷物をまとめてその岩室をあとにした。
街道に出て、太陽の位置から方角を確認し、耶麻姿の里がある方へ向かう。里まで降りていくかはまだ決めかねていたが、その様子を確認しておきたい気持ちは、二人とも同じだった。
冬の間に、葵の左腕はかなり回復していた。まだ弓を引くことはできないが、日常的な身の回りのことは、ひととおり支障なくこなせるようになっていた。
それでも夜光はつい心配になって、隣を歩く葵に声をかける。
「腕は大丈夫ですか、葵?」
「うん。近頃はあまり痛まなくなったし、問題ない」
葵は左腕を持ち上げてみせながら答えた。それは一見した肌色だけなら、指先までもう右腕とさほど変わらない。ただ一度切断された肘の少し下あたりには、ぐるりと輪を描くように、まだぎょっとするほど生々しく痛々しい傷痕が盛り上がっていた。
「それは、一生残りそうですね」
その傷痕を見て、夜光は言う。葵は穏やかに頷いた。
「だと思う。俺には良い戒めだよ」
「戒めというには、少しむごすぎます」
「そうか。じゃあ、誉れだとしておこうかな。槐殿が仰っていたように」
夜光は未だに葵の傷について、身心双方の意味で心配なのだが、当の葵は案外けろりとしている。もし自分が腕を切り落とされたなら、それ自体が相当な心の傷になりそうだったから、感心するというよりも不思議だった。
それを疑問に思ったまま口にすると、葵は神妙な顔で、しばらく考え込んだ。
「うん……そうだな。多分それは、あのときはそんなことを考える余裕も無かったせいだと思う。俺はあまり頭が良くないから、それが逆に良かったのかもしれないな」
あはは、と笑う葵に、夜光は首を振った。
「いえ。きっと葵は、強くて勇敢なんだと思います。少なくとも私よりは」
夜光はその場を見ていたわけではないが、あの恐ろしい闇蜘蛛を前に、きっと葵は一歩も退くことはしなかったのだろう。それを言えば、葵は夜光のためだったと答えるだろうが、絶望しかない局面でそう出来る者が、いったいどれほどいるだろうか。
「俺が? いや、それは絶対に無いぞ。そもそも、太刀で斬ることすら躊躇うような臆病者じゃないか、俺は」
断言する葵に、夜光はふふっと笑ってしまった。
「それとこれとは別です。それに、そんなことを臆病だとは私は思いません」
「む……」
「ああ、葵。ほら、見て下さい。あそこに山桜が咲いていますよ」
夜光が指さした方向を素直に葵も見て、目許をほころばせた。
「本当だ。綺麗だな」
「ええ。山が、無事に甦りましたね」
うららかに春の陽が差す中、昨年の秋に紅葉することなく朽ちてしまった筈の山の木々は、宝玉よりも美しい翠の色に一面輝いていた。それらの中に山桜が、山桃が、椿や沈丁花に木蓮が、山吹に雪柳に花海棠が、こぶしの花が──様々な花々が、色とりどりに咲き誇っている。寒さが長く続き急速に明ける山の中では、季節も凝縮されたように豊かで美しかった。
夜光はそれらの薫りを運ぶ風を心地良く受けながら、確信する。まだ幼く弱いが、確かに「神の御座」の気配がする。昨年この山路を歩いたときのような薄暗い濁りがすべて吹き飛んで、この山を、この地をあたたかく嘉する大いなるものの気配を感じる。
確かめに行くまでもなかった。「山姿神社」に、正しき神が還っている。その証のように、夜光たちは一切妖の類いに遭遇することも無く進んでいけた。
そのうち、耶麻姿の里を見下ろせるあたりにさしかかった。葵と夜光はどちらからともなく路を逸れて、里をもっとよく見下ろせるあたりまで移動した。
里の周辺一帯は、よく手入れされた田畑が黒々と美しかった。新緑と春の花々で彩られた里は、春風の中に健やかな佇まいを見せている。一目見ただけで、もう里がすっかり落ち着きを取り戻し、荒ぶる山神の脅威から解放されて久しいことが分かった。
「もう大丈夫ですね、あそこも」
「うん。良かった」
槐から聞いてはいたが、実際に自分たちの目でそれを確認すると、安堵に自然と表情がやわらいだ。
「どうします? 里まで降りますか?」
夜光に訊かれて、葵は少しの間考え、首を振った。
「いや。訪ねたい気もするが、やめておこう。気になる人もいるが……正直、どんな顔をして行けばいいのか分からない」
槐はああは言っていたが、狂乱した山神を討った手柄を自分たちのものにする気にはなれなかった。それに、かつて葵と夜光を疑い、村八分にしていた人々の中にも、二人が出向けば気まずく思う者もいるだろう。
天休斎に一目会って、挨拶したい気持ちはあった。それに、柚太少年を始めとする里の子供達の顔も見たいと思う。
だが葵は、自分達は異端分子である自覚があった。今ああやって穏やかな時を送り始めた里に、自分達が再び降りていけば、どうあっても人々の中にあの恐ろしい出来事を呼び起こす。そこに人々を引き戻すには、まだ傷痕は生々しすぎた。
「そうですね……私も、少なくとも今は、私達はあそこには近付かない方が良い気がします」
思うことは同じなのか、夜光も頷いた。
二人で物言わず、そうして里を眺めていると、背後で軽い羽音がした。振り向くと、点々と白詰草の咲く青草の上に、黄金に煌めく八咫烏が舞い降りてきたところだった。
賢そうな整った顔をしている烏は何も言わないが、その視線は里と二人の間を行き来している。夜光がその意図を察して、ああ、と頬を崩した。
「葵。文を書きましょう、天休斎様に」
「文?」
「ええ。この子が届けて下さるそうですから」
葵は目をぱちくりさせていたが、夜光に促されて、その場で簡単に文をしたためることになった。
各々が懐紙に手紙を綴り、それを細長く折りたたんで脚に結わえると、何もかも承知しているように、八咫烏は黄金の翼を羽ばたかせて空に舞い上がった。
翼を輝かせながら、青空をまっすぐ里に向かって遠ざかってゆく八咫烏を見送ると、葵と夜光は顔を見合わせた。
「行こうか。そろそろ」
「はい」
少しの心残りはあるが、きっとこれで最後ではない。
二人は最後にもう一度だけ振り返り、豊かな里の奥、きっと天休斎の屋敷だろうと思われるあたりに金の光が閃いたのを確認すると、あとはもう振り返らずに歩き始めた。里とは違う方向へと。
◇
春を迎えた耶麻姿の里はうららかに美しく、屋敷の縁側で、天休斎はぼんやりと青空を眺めていた。
昨年秋の闇蜘蛛騒動以来、天休斎は里の立て直しのために日々奔走が続き、冬の間も気の休まるときがなかった。なにしろ春からの農作業に滞りが生じてしまうと、里全体が飢えてしまう恐れがあったからだ。
騒動からしばらくは、借り出した兵達の力も借りて、例の闇蜘蛛が里で暴れた後始末にかかりきりだった。
崩壊した住居をいったん取り壊し、瓦礫を撤去して骸を運び、身元の分かる者分からない者とを分けて、それぞれに弔った。闇蜘蛛は里への行き来で、その周辺に広がる路も田畑もめちゃくちゃにしていたから、それらを修復する作業も必要だった。
資材を工面しながら、段取りの管理と現場の指示を取り仕切り、騒動のうちに心に傷を負ってしまった者達一人一人を訪ねて慰撫し励ました。里を襲った衝撃が大きすぎた為、とくに最初のうちは天休斎が自ら動いて人々を鼓舞する必要があり、それこそ寝ずに駆け回る日々が続いた。
闇蜘蛛が再び襲ってくることはない、と天休斎が確信したのは、山全体を覆っていた瘴気のような穢れが、気が付けばきれいに晴れていたからだった。念のため山に捜索に入り、闇蜘蛛の通った跡を辿って進んだところ、まるで消滅してしまったように、ある地点からそれは途絶えていた。
そうこうするうちに、こう証言する者が何人か現われた。曰く、
「闇蜘蛛の痕跡が消えたあたりから、あの夜何か光るものが空に昇って、流れ星のように山姿神社の方に落ちていくのを見た」──と。
その後訪ねた山姿神社で、天休斎は不思議なものに出逢った。境内の一箇所に、もう山中では雪がちらつくのも珍しくないというのに、輝く翡翠のような美しい若葉をつけた小さな若木が顔を出していたのだ。
天休斎も含め、その場に居合わせた者達全員が、誰に言われるまでもなく若木を伏し拝んでいた。若木の周囲には注連縄が巡らされ、その日から御神木として大切に祀られることになった。
闇蜘蛛の脅威が去ったことを確信し、次第に里に活気と穏やかさが戻り始めた中。誰からともなく、「余所から来たあの二人が、闇蜘蛛と相討ちをして鎮めてくれたのだ」という話が広まった。
あの夜、闇蜘蛛を山へと連れて行った「空を舞う白い姿」と、それを追って馬で駆け抜けていった朱髪の若者の姿を、里の多くの者が目撃していた。それを境にいずれの姿もぱったりと見えなくなったのだから、そうだと考える方が自然ではあった。
天休斎自身、それを否定する材料を持たなかった。あの不思議な二人を思い出し、そう長いわけでもなかった同じ屋根の下で過ごした日々を振り返りながら、一連の出来事について思い巡らせた。
結局、あの二人は何者だったのだろうか。二人が死んでしまったとは思いたくなかったが、何の音沙汰もない以上、心楽しいとは言い難い想像を捨てきれない。何らかの事情があるのだろうとか、あんなことがあった里には来づらいだろうとか、そもそもあの二人は本来通りすがりの旅人なのだからと、あれこれ「戻らない理由」を考えながら、二人が無事であることを願わずにいられなかった。
縁側からぼんやりと空を眺めていた天休斎は、はあ、と大きな溜め息をついた。
「まったく……歳は取りたくないもんだよねぇ。本当に」
何かと忙殺されていた冬を越え、なんとか無事に里が春を迎えた頃、やっと天休斎は慌ただしい日々から解放された。そうなったらそれはそれで、糸が切れたように何をする気も起きなくなってしまった。
あの騒動は悪夢のようではあったが、葵や夜光という不思議な若者達との関わりは、天休斎にとって随分楽しいものだった。あの二人が闇蜘蛛を鎮めることと引き換えに命を落とした、などとは思いたくない。だが、死んでほしくはない者でも運命は時に容赦無く奪ってゆくものだということも、天休斎は知っていた。
「はぁ……なんだかもう、息子達に後は任せて、俺は隠居しちまって良い気がしてきたよ。ちいと疲れちまったし、やりたいことも大体やっちまったしなあ。このご時世に長生きなんざ、どのみちするもんじゃあない。──なぁ、乃百合さん?」
だいぶ昔にこの世を去ってしまった伴侶の名を呼びながら、天休斎が縁側にごろりと横になったときだった。きらりと、金色に光る何かが青空の中に見えた。
見る間に近付いてくるそれに、天休斎は訝しく目を凝らし、姿を見定めて思わず飛び起きた。
「なんだい、あいつは……?」
それは全身が黄金に輝く烏だった。里のほうで誰も騒いでいないのは、あれがいわゆる「視える者」にしか視えないものだからだろう。しかしそれにしても、黄金の烏など初めて遭遇する。
烏は真っ直ぐに天休斎のもとに舞い降りてきた。その脚を見て、それが三本あること、そこに細く折った紙が括られていることに気付く。
「なんとまあ。おまえさん八咫烏かい? しかも金色なんて初めて見たよ」
そういえば、八咫烏は太陽の化身だといわれている。金の烏、すなわち金烏も、太陽を表わす言葉だ。
随分とめでたい霊鳥がおいでになったもんだ、と天休斎が感心して八咫烏に見入っていると、その八咫烏が何かもどかしげに、縁側の上でぱたぱたと脚を動かして見せつけるような動きをした。
「ん、何だ? ……手紙? こいつを取れっていうのかい?」
よく分からないが、示されるままに八咫烏の脚に括りつけられた手紙を解く。すると役目は済んだとばかりに、八咫烏は羽ばたいて空に舞い上がった。見上げて目で追うと、その姿は高く舞い上がった先で青空の中にとけるように、すうっと消えてしまった。
「消えた……何だったんだね、いったい」
さすがの天休斎も、しばらく空をぽかんと見上げていた。はっと我に返り、手の中に残された世にも不思議な手紙に視線を落とす。
細長く折りたたまれたそれを開いてみると、どうやら書き手の違う手紙が二通重ねられているようだった。
「ええと、なんだって……なになに」
いったい何なんだ、と思いながら手紙に目を走らせた天休斎は、次第にその普段は細い目を丸くした。二通を読み終え、八咫烏の消えてしまった空をもう一度見上げる。
そこにはいつもと変わらない青空があるだけなのを見ると、またゆるゆると手紙に目を戻した。
あらためて二通の手紙をじっくりと読み直す。思わずこらえきれなかったように、その目許に僅かに光るものが滲む。
それをごまかすように目許を揉みながら、天休斎はふぅと、肩から深く嘆息した。
「まったく、あの子達は……これでまた、おまえさん達が訪ねてくるまで、せいぜい長生きせざるを得なくなっちまったじゃないか」
思わずこぼし、天休斎はもう一度しみじみと春の空を見上げて、誰にともなく笑った。
(了)