氷雨に訪う (一)

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 人と妖。私達は確かに、生まれながらに種として異なっている。だけれど誰かを愛し、欲する心は、人であろうと妖であろうと、そうたがわぬはずだ。だからどうか、私を信じてほしい。私と一緒になってくれないだろうか──蓮華れんか

 そういって私の名前を呼んだあのひとは、あっさりと月に惑わされて消えてしまった。それなのにあのひとを忘れられない私は、知能を持たない虫螻むしけらよりも愚かなのだろう。
 生まれ変われば、そうしてあのひとにまた巡り逢えれば、今度こそ私は幸せになれるのだろうか。
 それとも……。

       ◇

 う、と思わず声が出た。それくらい、古びた木戸を引き開けた先に広がっていた光景は凄惨だった。
「これは……何があったんだ」
 むせ返る血の臭いに、雨に濡れた編笠を持ち上げながら、葵は薄暗い中で眉根を寄せた。続いて、頭から白い被衣かつぎをかぶった夜光やこうが、足音も立てずに木戸をくぐってきた。
「ひどいありさまですね」
 粗末な小屋に差し込む鈍色にびいろの光を、夜光の白い睫毛が受ける。紫苑の色を宿した美しい瞳が、あたりの様子を映して淡く翳った。
 昼なのに薄暗い空からは、篠突くような雨が降り続いている。その鈍い薄明かりの差し込む中、小さな板間や土間を染め上げんばかりに、赤黒い血の海が広がっていた。
 その中に転がっているのは、一組の男女に二人の子供。家族だろうか。男は、身体を上と下とにちぎれるほど引き裂かれている。子供の一人は、首が胴から離れていた。もう一人の子供は、ねじれた不自然な体勢で倒れたまま、虚ろな目を天井に向けている。
 ざっと見ただけでも、誰にも息があるとは思えなかった。葵が首のある子供の傍に屈み、その投げ出された血塗れの細い手首を軽く持ち上げる。次に、身体を捻るようにうつ伏せている女の傍らに進み、その首筋に触れた。ふう、と、重く小さな嘆息のあと、葵は無言で立ち上がった。
 その様子を黙って見守っていた夜光も、血塗れの凄惨な中へと足を運んだ。かぶった被衣を、するりと肩に落とす。不可思議な力で護られた生地から、薄明かりにぱらぱらっと水滴が散った。
 倒れている一人一人の様子を見て回り、夜光は呟いた。
「……喰われていますね」
「野の獣だろうか」
 物言わぬむくろたちを痛ましげに見下ろしながら、葵は無意識に声音をひそめた。
「いいえ。僅かですが、人ならぬものの気配が残っています。この者たちは、どうやら物の怪……あやかしに喰われたようですね」
 夜光の柳眉が、僅かにひそめられた。小屋に残る妖気を検分するように、夜光はあたりをぐるりと眺めた。
「そのものが此処に戻ってくるかは分かりませんが。どうします、葵?」
 夜光が言いながら葵を見返ったと同時に、小屋の外で、世界が真っ白く光った。僅かな間を置き、思わず首を竦めるほどの大きさで、雷鳴が轟く。低く重く唸るそれに、ざあっという強い雨音が重なる。
 葵が小屋の戸口から、笠の縁を上げて鈍色の空を見た。
「ひどい降りになってきたな。これは当分やみそうにないぞ」
 雨の一粒一粒が重みを持って、あたりが白むほどに、地を、樹木を叩いている。
 夜光も戸口に寄って、雨空の様子を伺った。
「この中を歩いたら、川で泳いだようになってしまいますね」
「ありがたい話では無いな」
 季節は冬に向かい始める頃。とくに標高が高めのこのあたりでは、吐く息が幽かに白くけむるほど、既に寒い。
 葵も夜光も「まっとうな人間」では無いから、多少のことでは体調を崩したりはしない。だからといって、冷たい雨の中をずぶ濡れになって歩くのは気がすすまなかった。そもそも、とりたてて急ぐ目的がある旅でもない。
 葵は少し考え、あらためて小屋の中を見返った。
「仕方がない。ここで雨宿りさせてもらおう。……この者達を、このままにして行くのもはばかられる」


 凄惨な四つの遺骸には、ひとまず土間の隅にあった蓑をかけておいた。この雨が止んだら、雨宿りのせめてもの礼も兼ねて、簡単でも墓を作って埋めていってやりたい。子供を含む四人くらいであれば、そこまで大がかりな手間でもない。
 粗末な小屋の奥には、もうひとつ、さして広くはないが板間の部屋があった。葵と夜光は、板戸で仕切られたそちらに移動した。
 小部屋には、丸めた荒縄や茣蓙ござ、網のようなもの、積まれた何かの毛皮や葛籠やかめなどが、雑然と置かれていた。造りは粗いが頑丈そうな弓矢の一式や槍、山刀のようなものも見える。人里離れた此処に住んでいた彼らは、どうやら猟師の一家であったようだった。
 身を寄せて休むぶんには困らない程度の場所はあり、二人はありがたく、そこに腰を落ち着けることにした。
「助かったな。こうも土砂降りでは、歩むのもままならない」
 強い雨が叩く天井のほうぼうから、雨漏りがしている。葵は雨具を完全に解くことはせずに、落ちてくる水滴を見上げた。
 幸い風はほとんど無く、明かり取りの窓から雨が吹き込む様子は無い。持ち運びできる小さな火鉢に火種をいれると、やがて炭が赤く燃え始め、ほっと二人は息をついた。
「そうですね。とうぶん止みそうにありませんし」
 夜光が窓を見遣り、空の様子を眺める。重く厚く垂れ込めた暗雲は、時折雷光を抱きながら、まるで黄昏刻のような暗さであたりを覆っていた。
 ──葵と夜光は、気の向くままに、この「蓬莱」とも呼ばれる人の世を旅して歩いている。
 二人がここを通りすがったのは偶々だが、「半人半妖」である夜光は特に、霊的なもの、「人ならぬもの」の気配に引かれやすい。なんとなく歩いているだけのつもりが、こういった「人外が絡む場」に出くわすことも多かった。
「あの者たちを襲ったのが妖だとしたら、このまま放っておいても大事無いだろうか」
 閉じた板戸の向こう、気の毒な一家の亡骸があるほうを見やりながら、葵は言った。
 火鉢で茶を温める準備をしながら、夜光がそれを受けた。
「ここは人里からは距離がありますから。妖が此処に戻ってくるのであれば別ですが、そうでないのなら、あえて手を出す必要はないかと存じます」
 夜光の中性的な白い面は、どこか憂いを含んだように儚げで美しい。肩のあたりで切り揃えられた髪の色は、柔らかな月光を孕んだような、真珠の粉をまぶしたような乳白色をしており、それがいっそう神秘的で、舞い降りてきた天女もかくやと思わせる。
 戸板一枚を隔てた先の惨状を意にも介さぬような、眉一つ動かすでもない様子は、ますます夜光を人間離れしたもののように見せていた。
 葵は板戸から目を離し、この小屋に来てから何度目かの、小さな嘆息を落とした。
「……そうか。そうだな。俺達が横から手を出す筋のことではないか」
 妖だとて、生きている。
 妖、物の怪と呼ばれるものの類いは、本来はこの「現世うつしよ」とは異なる場である「幽世かくりよ」に棲んでいる。が、中にはその幽世を這い出すものもいる。
 どこでどう生きようと、それは個の自由であり、そして命あるものには生きる権利がある。
 ここは人の世であるから、人に害を為すものであれば、葵はその始末をすることがあった。だが「生きるため」に人を糧とするものを、ただそれだけでおいそれと討って良いものかというと、葵は「否」とも思う。
 身に降りかかるわざわいであれば、振り払わねばならぬ。看過できぬほどの損害を罪無き人々に与える物の怪であれば、人々の平穏を保つために、やはり手を打たねばならぬと思う。
 だが人間とて、「生きる」ために他の生き物を喰らう。人だろうと妖だろうと、それ自体は等しいことなのだ。生きるために喰らうことを、何ものにも咎めるいわれは無い。
 そうは思いながらも、無惨に喰い殺された一家が、どうしても気の毒で憐れでならなかった。そんな葵の様子に、夜光がふと目を上げて、微笑んだ。
「おまえさまは、本当にお優しくていらっしゃる」
 外が薄暗いから、火鉢の仄明かりでも、あたりを暖かく照らし出している。夜光を見た葵の朱色あけいろの髪も、その気質の穏やかさを示すような面差しも、火鉢の明かりに柔らかく縁取られていた。
「優しいというのかな、これは」
 葵は苦笑する。夜光は決して皮肉るようではなく、そんな葵を見つめた。
「甘い、と言って差し上げても構いませんが。私は、そういうおまえさまが好きですよ」
「素直に『甘い』でいいんだぞ? 身に染みている」
「優しさを甘さと言うも、ただの言葉遊びです。おまえさまは、憐れみを振りかざすことはしない。それがおまえさまにとってはつらいことでも。だから、おまえさまはそれで良いと思っております」
 夜光のほっそりとした白い手が、湯気の立つ湯飲みを差し出す。葵は夜光のそれよりもだいぶ大きな、骨張った手を伸ばして、湯飲みを受け取った。
「おまえの方こそ、俺には随分と甘いな」
「そうでもありませんよ。おまえさまは、ご自分を甘やかしませんから。そのぶんを私が埋め合わせているだけです」
「買いかぶりだと思うがなあ」
「そう思うなら、それで。あまり自惚れないところも、おまえさまの良いところですから」
 澄ました様子で、夜光は湯飲みを口に運んでいる。
 むやみに褒められたようで何かむず痒く、だが夜光の示してくれる好意が嬉しくて、葵は湯飲みの陰で小さく笑った。
「おまえは、人を褒め殺しにするのがうまい」
 葵が言うのに、夜光がついと目線を動かす。意味ありげな淡い笑みを、その形の良い唇が含んだ。
「そうですか。それはきっと、──もともとの仕事柄のせいでしょう」

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