氷雨に訪う (四)

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「あのとき私は、間違い無く、あなたの想い人を利用して命を奪いました。……あの御仁はマレビトでしたから。急に所在が知れなくなっても、そう騒ぐ者もいないだろうと……思ったのです」
 冷たい雨の中に座り込んだまま、懺悔するように夜光は言った。
 夜光が贄にしたマレビト──すなわちあの人間の男は、元は蓮華の恋人だった。蓮華も当時は「花」であったから、それはおおっぴらなことでは無い。ゆえに夜光がそれを知ったのも、あの人間を贄とし、蓮華に襲われた後のことだった。
 あの男は、元々は夜光を目当てに最玉楼を訪れたのでは無い。何かの宴に招かれて来て、そこで夜光に出会った。
 美しく神秘的な佇まいの夜光に、男は一瞬で心を乱された。男の中に「マレビト」という不安定な身の上であるが故のちいさな「隙」を見出した夜光は、そこにつけ込んで、さほど苦労することなく男を籠絡した。男が「人間」であったことも、夜光をいっそう冷酷に、無情にさせた。
 今ならば分かる。自分のやったことが、どれほど残酷で罪深いことであったのか。「葵」という己の命よりも愛しく大切に想う存在が出来た今、あの頃の自分が、如何に残酷で恐ろしい生き物であったのか分かる。禁忌である「断理の法」に拠らないことの代償が、軽いものであるわけがなかったのだ。
 夜光の言葉を聞く蓮華は、今度は恐いほど静かだった。こみあげる強烈な感情のあまり凍てついたような、蔑みに満ちた眼差しで、うなだれている夜光を見下ろしていた。
「──やっと認めるのね。誰もあのときは、私の言うことなんて信じなかった。おまえは最玉楼の『花』で、しかもあの御方がついていたんだもの。おまえがあのひとを殺したことなんて、誰も信じてくれやしなかったわ」
「蓮華……」
「私はね。おまえを絶対に許さないと決めたんだよ。おまえがこの世に生きていて、息をしていると思うだけで、私は気がふれそうになる」
 夜光を凝視しながら淡々と言う蓮華の声音が、地を這うように低くなってゆく。雌黄の双眸に、恐ろしいほど純粋な憎悪と殺意が燃え上がる。
 強まる殺気と妖気に煽られ、ざわざわと蓮華の長い黒髪が揺らめく。蓮華の蛇体から伸びた無数の節足がざわめくのを見て、夜光は声音を高めた。
「蓮華、待って。聞いて下さい」
「はン? 何だよ、今さら。命乞いか」
 牙を剥き出しに言い返した蓮華に、夜光は言いつのった。
「そうではありません。あの御仁のことです。あの御仁は、無事でおります。生きているのです」
「……はぁ?」
 まさかの言葉だったのだろう。蓮華が完全に、意表をつかれた顔をした。すかさず、夜光は続けた。
「あの御仁の命を、確かに私は一度奪いました。ですがそれは、極めて特殊なしゅによるもの……いささか特異なものだったのです。その呪が解かれたことで、あの御仁は無事に甦りました。あの御仁は、今も終の涯で穏やかに暮らしておられます」
 立て続けに語った夜光に、蓮華はしばし呆気にとられていたが、すぐに強くかぶりを振った。憎々しげにぎちりと歯軋りし、夜光を睨みつける。
「聞いて呆れるわ。そんな都合の良い話があるものか。死にたくないのなら、もうちょっとマシな言い訳を考えるんだな」
「信じて下さい。いいえ、あなたが私を信じられるわけがないのは分かります。でも私があなたの誘いに乗って、あえて身ひとつで此処に来たのは、あなたにこれを伝えなければと思ったからなのです」
 夜光には誘いを無視することも、素直に従わないことも出来た。葵を起こし、得物を持って二人でかかれば、蓮華を抑えることはそう難しいことではないのだから。
 夜光の訴えに、ぴくり、と蓮華の頬が動いた。確かにと思う節はあったのか、ごく僅かだったが、その表情の険しさが緩んだように見えた。
 無言の蓮華に、夜光は降りしきる雨もはねのけるように、懸命に重ねた。
「あの御仁は、今では私と関わった記憶も失っております。蓮華、あなたが会いに行けば、きっと悪いようにはなさらないはず。私のせいで終の涯を追放されたというのなら、終の涯に戻れるように、私が必ずや長様と話をつけます。ですから……」
「──いい。分かった。それ以上は、黙れ」
 俯いた蓮華が、錆び付いた声でぼそりと言った。乱れ流れ落ちる蓬髪のせいで、その表情は伺えない。だがその声音は、どこか気が抜けたような響きを含んでいた。
 いくぶんかの沈黙の後、蓮華が俯いたまま問うた。
「あのひとが生きている、というのは……確かに、まがいごとでは無いんだね」
「はい。誓って」
「ふん」
 蓮華が顔を上げた。乱れた黒髪の間から、淡く輝くような雌黄の両眼が夜光を捉える。すぐにまた、その視線が落ちた。それは力無い動作のように見えた。
「……私は、もう終の涯には戻れない。手遅れだ」
「なぜですか」
「私は蓬莱に来て、人を喰らってしまった。人の血肉の味を、精氣の味を覚えてしまった。……今会えば、私は欲に負けて、あのひとを喰ってしまう」
 淡々と言った蓮華に、夜光は返す言葉を無くした。
 夜光は人を喰わないから、その欲求や衝動の程は分からない。だけれど妖の多くは、性質として人間を、それも若者を好んで喰う。若く精氣に満ちた人間は、それを糧とする妖にとっては大層甘く美味である、とも聞き及んでいた。
「蓮華……」
「それに。あの頃と違って、今の私はこんな姿だ。人を喰って力を得たことと、身悶えるほどの恨み憎しみが募ったことで、気が付いたらこうなっていた。まして人を喰ったなどと言えば、あのひとはもう、あの頃のように私を愛してはくれまいよ」
 自嘲するように口の端を歪めた蓮華に、夜光は何も言えなかった。ただ、ああ、自分のせいだ、と、雨に打たれるままだった手脚から力が抜けた。
「……そうなの、ですか……」
 ──なんという取り返しのつかないことを、自分はしてしまったのだろう。
 それを目の当たりにして、呻きひとつも出なかった。今さら後悔しても、何もかも遅い。自分は、自分の我欲ただそれだけのために、蓮華という娘を戻れない生き地獄に堕としてしまった。
 雨に打たれるまま座り込んで動けない夜光に、ぞろり、と蓮華が視線を向けた。濁った光を宿すそこには、底冷えするような暗い感情が揺らめいていた。
「そこで、そんな顔をされてもねぇ。私の溜飲は、これっぽっちも下がりゃしないんだよ?」
「分かっています……」
 詫びそうになって、夜光はそれを飲み込んだ。詫びて済むことでは無い。詫びの言葉こそ、蓮華は最も望んでいない。
 ざわざわと無数の節足を蠢かせながら、蓮華が夜光の前まで近付いてきた。
 鋭い爪を持つ蓮華の手が伸ばされ、夜光の柔肌が傷つくのも構わず、俯いていたその細い顎をぐいと持ち上げる。冷たい雨に濡れた髪が張り付いた夜光の頬は、ますます青ざめて白かった。
 夜光を間近に見下ろす雌黄の眼が、妖しく冷ややかに細められた。
「おまえをどうしてやったら、少しは私の気は晴れるんだろう。八つ裂きにして臓物はらわたを引きずり出してやろうか? そのお綺麗な顔を、二目と見られないようにしてやろうか」
 蓮華の吐き出す恐ろしい呪詛に、夜光は細く息を吐き、薄い瞼を閉じた。
「好きに、するといい……」
「へぇ? 随分と健気だこと」
「ただし、命だけはやれません。……それ以外のものなら、なんでも持ってゆくといい」
 夜光が死ねば、葵が嘆き悲しむ。だから命だけはやれない。この期に及んでの身勝手を承知で、優先すべきものの序列を譲ることは出来ない。
 蓮華がつまらなそうにわらい、吐き捨てた。
「そんな都合のいい話が、今さら通ると思ってる? 私は、おまえが生きていること自体が許せないんだよ」
「蓮華、お願いします。どうか……」
「命乞いするの? あはは、いいわねぇ! 考えつく限りの惨い方法で、たっぷり苦しめた後で殺してあげる。おまえの死体は、終の涯に投げ込んでやろう。高慢なあの御方がどんな顔をするか、今から楽しみだ……」
 そこまで言ったところで、突然蓮華がカッと眼を見開いた。全身を強張らせるのと同時に、夜光を突き放す勢いで、暗い木立のほうを振り返る。
 どうしたのだろう、とゆるゆる首を巡らせた夜光の視線の先で、木々の間から歩み出てくる人影が見えた。──蓮華に向かって真っ直ぐに弓矢をつがえた葵が、そこには立っていた。
「葵……」
「すまない、夜光。おまえが黙って出て行ったから、関わらない方が良いのかと思ったんだが。さすがに、もう見ていられない」
 弓矢を下ろさないまま、葵は言った。蓮華を見据える眼差しも、感情をうかがわせないほど、ただ静謐だった。
「なんだおまえは。邪魔をするんじゃないよ」
 ぎちぎちと噛み合わせた歯を軋ませながら、蓮華が葵を睨み付けた。恐ろしいばかりのその形相にも、葵は少しも怯まなかった。
「そうはいかない。ここで夜光は連れ帰らせてもらう」
「……おまえは何だ。夜光の情男いろか」
「違う。伴侶だ」
「……はァ?」
 ぽかんとした後、蓮華が派手に吹き出した。喉をのけぞらせて笑い出す。
「伴侶。伴侶だって? あっはははははは! あぁおかしい。相変わらずだなあ、おまえは。ひとをたぶらかすことにかけては、本当に一流だよ!」
 ガッと、蓮華が既に血に染まっている夜光の前髪をつかんだ。途端、それまでただ静かだった葵の眼差しが、険しさを帯びた。
「やめろ。これ以上の無体は許さない」
「許さない、だぁ?」
 夜光の前髪をつかんだままで、蓮華が葵をねめつけた。
「何様だよ、おまえは。人間ごときが私に指図するっていうのか」
「人間だろうと関係ない。夜光の身に関わることなら、俺にとっても他人事ではない」
 そこまで言った葵が、しかしそこで蓮華に向けていた弓を下ろした。
 怪訝な顔をした蓮華に、葵は正面から目を向ける。蓮華を捉えたその眼差しは、優しいとさえ言えるほど、どこか悲しげですらあった。
「──あなたの事情は分かった。お気の毒だと思う。だが俺も、夜光が害されようとするのをおめおめと見過ごすわけにはいかない。夜光も苦しみ、後悔している。俺が来なければ、夜光はあなたの復讐を甘んじて受け入れたはずだ」
「…………」
「それに免じて、この場はおさめていただけないだろうか。どうかお願いする」
 黙って聞いていた蓮華が、バリッと、ひときわ高い歯軋りの音を立てた。心底から忌々しげに、その雌黄の眼が斜に葵を見返した。
「たわけが。苦しみ後悔しているから何だ。それで万事が赦されるなら、世から罪咎なんぞ無くなっているわ」
「どうあっても、見逃してはいただけないと?」
「くどい」
「そうか。……ならば、致し方ない」
 再び、葵が弓を上げてつるを引いた。先程とは異なる気配が、そのつがえた矢に宿る。それは「視える」者には感じ取ることのできる、いわば「気」の塊だった。白い焔のようにも、朱金に揺らめく焔のようにも見える、不可視の光。天から落ちてくる冷たい雨粒すら、一瞬葵を避けたように見えた。
 それを感じ取った蓮華が、顔色を変えた。瞬時にざわっと蓬髪が逆立ち、夜光を放り出して葵に向き直る。
「人間風情がこざかしいわ。であればまず、夜光の目の前でおまえを喰らってやろう。骨一本残さずにな!」
 恐ろしい形相と勢いで襲いかかってくる蓮華に、構える葵は微動だにしなかった。
 真っ直ぐに見据えたその先に弓が引き絞られ、溜めた呼吸を解放すると同時に、迷い無く矢が放たれる。闇の中をはしった一矢は見えざる焔を纏い、違うことなく、蓮華の胸を──心の臓を貫いた。
 夜の森に、耳を塞ぎたくなるような絶叫が轟いた。貫いた矢から燃え上がった火焔が、一瞬にして蛇女の全身を包み込んだ。
 身を捩らせる蛇女の全身を焔が舐めると、燃え上がったときと同じく、瞬く間にそれは消え去った。ぼろり、と蓮華の射貫かれた胸部が崩れた。灰か塵のようにぼろぼろと崩れてゆきながら、蛇の胴を持つ女妖は、ゆっくりと仰向けに倒れていった。
 その一部始終を、葵は目を逸らすことなく見つめていた。感情を封じ込んだようにも見える表情のまま、倒れた蓮華のもとへと歩み寄る。
 蓮華の傍らに、葵は片膝をついた。そうする間にも崩れてゆく蓮華の手に、物言わず手を差し伸べる。
 蓮華の細い指を、両手の中にそっと握ったそのとき、初めて葵の表情が揺らいだ。こらえきれないように息を吸い、小さく唇を噛む。
 崩れていきながら、自身の指を握るその感触に、蓮華が気付いた。その顔も、見る間にぼろぼろと崩れてゆく。
 既に魂が抜けたような、呆けた顔になっていた蓮華が、ふふ、と小さく笑った。
「あんた……変わった人間だね。夜光なんかには……もったい、ない……わね」
 葵は何も言わず、ただ崩れてゆく蓮華を見下ろす。その手の中で、蓮華の指が完全に崩れ、感触を失った。
「あり、がとう……これでやっと、楽に、な…………」
 蓮華の最期の言葉は、掠れてほとんど聞き取れなかった。その身体のすべてが崩れ、いずこともなく散ってゆく。
 葵は少しの間、そのまま動かなかった。俯いたその表情は、前に流れる長い髪に隠れて、夜光からはよく見えなかった。

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