氷雨に訪う (五) -完結-

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「葵……」
 夜光が呼びかけると、首を上げて空を仰いだ葵が、ふう、とひとつ息を吐いた。ゆっくりと立ち上がり、夜光を振り返る。
 夜光と視線を重ねたそのときには、葵はもう、いつもの柔らかな表情に戻っていた。
「大丈夫か、夜光」
 少し離れた場所に落ちていた白い被衣を、葵は拾い上げる。立ち上がれないでいる夜光に歩み寄ると、泥で汚れたずぶ濡れのその身体を、ふわりと被衣でくるんだ。
 白い被衣ごと、葵は夜光を抱き締めた。
「遅くなってすまなかった。ひどい怪我だな」
「……いいえ。いいえ、……葵……」
 葵の感触と体温にくるまれて、夜光の喉が震えた。言いたいことはたくさんあるのに、何も言葉にならず、瞳に涙が盛り上がってぼろりと零れた。
 その冷え切った髪を、葵の掌が優しく撫でた。
「分かっている。何も言うな」
 こみあげてくるものを抑えておけず、葵にしがみついて、夜光は嗚咽した。
 自分に泣く資格など無い。それでも、涙があふれて止まらなかった。
 自分のやってきたことと向き合う重さに、胸が潰れるかと思う。結局自分には何もできず、何もさせてすらもらえない。詫びることさえ赦されないのだから、まして蓮華を哀れむことなど、断じてしてはならない。してはならないのだ。
 黙って抱き締めてくれる葵の腕のあたたかさも、夜光をひどく泣かせた。結局自分には、こういうときに葵がいる。すべてを承知で、夜光の罪を一緒に引き受け、共に歩んでくれる葵がいる。
 いくら葵自身が承知の上だとはいえ、夜光の罪に巻き込んでしまったこと、汚さなくて良い手を汚させてしまったことが、胸を掻きむしりたいほどつらかった。葵とて、無感動でいられるわけがないのに。ましてや葵は、夜光などよりもずっと心優しいのだから。
 それなのに、夜光は葵の手を放すことができない。葵がいてくれなければ、この苦しさの中を生きてゆくことなど、到底出来ない。罪の上に、また罪を重ねているように思えてならなかった。何一つ言葉がまとまらず、ただ嗚咽し続けている夜光の背を、ぽんぽん、と葵の掌が叩いた。
「夜光。そろそろ戻ろう」
 その声音も、いつもの葵と変わらない。見上げた青みがかった瞳の深さと優しさに、夜光はしゃくりあげながら、なんとか頷いた。
 まだ顔を上げられず、俯いていた両頬に、葵の掌がふれてきた。
 皮膚の硬い大きな手が、夜光の顔を上向かせる。その額の無惨な傷痕と、まだ完全には止まっていない鮮血に汚れた半面に、このときばかりは、葵はひどく痛々しげな、悲しそうな顔を見せた。
 葵は夜光を見つめ、優しいが真剣な眼差しで言った。
「夜光。俺はおまえと生きると、とっくに決めているんだ。ともに生きる、ということの意味を俺に教えてくれたのは、おまえだ。だから、あまり気に病むな。これで良いと俺は思っている」
「葵……」
 やはり何も言えないでいる夜光に、葵は口づけた。ただ柔らかく唇と唇がふれるだけのものだったが、それはひどく胸に染み入る感触がした。
 そのとき、遠くから鳥の囀る声が聞こえた。
 気が付けば、あたりがうっすらと明るくなり始めている。そのときになって、いつのまにか雨が止んでいたことに夜光は気付いた。
「もう、朝なんですね……」
 葵の手を借りて、ようやく立ち上がりながら、夜光はあたりを見回した。
 雨は止んだとはいえ、まだあたりの木々は水滴を抱き、地面も下生えの草も濡れている。空の雲もまだ晴れてはおらず、夜でも朝でもない無彩色の世界に、目覚め始めた野生の様々な生き物の声が響いていた。
 ここに来たときに蓮華が居た、苔むした岩を見やる。夜が明けてきたことと、蓮華の姿が跡形もなく消えてしまったせいで、何かひどい悪夢からようやく覚めつつあるようだった。
 だが、これは夢などではない。そして罪を抱いたまま、苦しみを呑んだまま、この先も自分は歩いていかなければならない。
 それが自分なりの償いであり贖罪なのだと、少しずつ白んでゆく空を見ながら、ぼんやりと夜光は思った。
 夜光は葵を見上げた。隣に立つ葵が笑ってくれるのだから、自分が笑わないでどうするのだろう。葵のように、苦しみも哀しみも飲み込んで、それでも穏やかに笑えるほどの強さは、まだ自分には到底持てないけれど。
 夜光はひとつ、ゆっくりと深呼吸をした。冷たい朝の空気が、強張っていた身体の隅々にまで染みわたってゆくようだった。
 葵を見上げて、夜光は少しの苦労をしながら、まだ強張っている頬で僅かに微笑んだ。そして少しずつ明るくなってゆく空を仰ぎ、言った。
「それでは、いきましょうか……葵」


(了)

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