花衣に眠る (一)

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 境内の長い古びた石段を登っていくうち、少し眠たげな色の青空に、風に巻き上げられた桜の花びらが舞った。
「あ……」
 頭からかぶった白い被衣かつぎを押さえながら、夜光はそれを目で追いかける。残りわずかだった石段を登りきった先で、その色の淡い唇が、思わず小さく綻んだ。
「これは見事だな」
 隣で葵が編笠の端を持ち上げ、顎紐をゆるめて外しながら目を細めた。
 本堂へと続く参道の両脇を埋めて、立派な桜が空までも染めそうなほど咲き誇っている。見上げた葵の瞳に、空と桜が晴れやかに映り込んだ。
「はい」
 短いいらえのうちにも、夜光の声も自然と浮き立っていた。
 境内の奥には、そう大きくはないが重厚な構えの本殿があり、ちらほらと参拝する人々の姿が見えた。満開の桜で華やいで見えるが、場所柄のせいか、存外に空気はひっそりとしている。
 ふんだんに花を付けた見事な枝振りを真下から見上げながら、夜光は知らず、うっとりと微笑んだ。
 桜を見ると、遠い異界にある故郷を思い出す。愛しく懐かしい、「終の涯」と呼ばれていた場所。
 今まで見たどの街よりも雅で美しいあの街には、春にはあふれるほどの桜が咲き誇った。季節ごとにそれぞれ美しい街だったが、夜光はとりわけ、桜をはじめとする色とりどりの花々であふれる春の風景が好きだった。
 夜光が終の涯を思い出しているのと響きあったように、葵も桜を見上げながら言った。
「こんなに見事な桜は、いつぞやの華陽山かようざん以来かもしれないな」
「ええ。『こちら』にも、このような場所があったのですね」
 華陽山とは、終の涯にある桜の景勝地だ。夜光と葵にとっては、桜の季節に何度か共に歩いた、思い出の場所でもある。
「こちらと向こうとは、勝手も何もかもが随分と違うが。美しいものは、等しく美しいな」
「はい」
 夜光と葵は、そこからしばらく動かずに、並んで空と桜を見上げていた。
 無数の花びらを遊ばせる風が、髪をやわらかく掬い上げる。つい最近までは雪が見られる日もあったけれど、一日ごとに、凍える冬は遠ざかってゆく。
 こちら──「蓬莱」と呼ばれるこの「人の世」に、夜光と葵が連れ立って渡ってきてから。数えて、これで三度目の春になる。
「こちら」と「むこう」とでは時間の流れが違うから、今の終の涯の季節が何であるかは分からない。けれど終の涯にも、あれから何度目かの春が、夏が、秋と冬が、よどみなく美しく巡っていることだろう。
 蓬莱の空は青く澄んでいるが、淡い虹色の極光を帯びるようだった終の涯の空とは、一目で分かるほど違う。見上げているうちに、ふと夜光の胸の奥に、切ない小さな痛みが揺れた。
 ──あとどれくらい、こちらで過ごせば良いのだろうか。
 故郷を離れて、まだたったの三年しか経っていない。それなのに、終の涯を思わせる桜花の群れを、そして決定的に違う空を眺めているうちに、そんな物思いがわきあがってきた。
『人の間で、精一杯に生きなさい。様々な人間がいるということを知ることが、おまえをその苦しみと哀しみに満ちた呪縛から解き放つでしょう』──
 かつて終の涯を発つ前に、そこの長であり夜光の養父でもあるそのひとが告げた言葉が、まるで昨日聞いたかのように、耳朶に甦った。
「人間」を理解できない夜光が「人間」というものについてを知ること。そんな漠然とした、そもそも人間を拒絶し嫌悪している夜光にとっては途方もないことが、この旅の目的だ。
 目的が果たされるまで、きっとこの先何年も、何十年もかかる。それまでは、終の涯に帰ることはできない。年に一度くらいは、無事の報せもかねて顔を出すこともあるけれど、それはあくまでも仮のものだ。
 終の涯で育った夜光にとっては、たとえ生まれ故郷はこの蓬莱であっても、どこまでもここは「異郷」だった。普段は抑えているが、時折なにかのきっかけで、やはりどうしようもなく寂しくなる。懐かしい終の涯に帰りたくてたまらなくなる。
 いけない。これ以上考えていては。
 桜の花びらごと故郷に攫われてしまいそうな心を、夜光は視線を外しかぶりを振ることで、どうにか現実に引き戻した。
 桜は好きだし美しいけれど、ときどき危険だ。夢幻のようなその花びらの群れは、人も妖も区別なく惑わせる。ふと油断すると、うつし身から心がふらりと離れそうになってしまう。
 風にゆるく流される髪と被衣を押さえながら、夜光は隣の葵を見返った。
「葵……」
 呼びかけた声が、何かに押しとどめられたように、口の中で消えた。
 葵は変わらずに、夜光の隣にいた。落ちかかる春陽を受けながら舞う花びらの中に立っている姿は、先程までと何も変わらない。変わらないはずなのに、何かが違う。
「……葵……?」
 ──何処を見ている?
 空と桜を見上げる、夜明けの群青を宿した瞳は、ひどく遠くを見ていた。
 一瞬夜光は立ち尽くし、しかしすぐに、はっと我に返った。
「葵。葵?」
 思わず、ぶしつけに名前を呼んで、その袖をつかんだ。咄嗟のときに出た行動が、完全に心細い幼子のようで、夜光は少し自分が情けなくなった。
 けれどそれ以上に、胸がざわついていた。すぐ隣にいるはずの葵が、まるで遠いどこかにいってしまいそうな気がする。それこそ桜に惑わされて、夜光の手の届かないところへ攫われていってしまいそうに見える。
「うん? ……ああ、すまない。少しぼんやりしていた」
 ぱっと、夢から覚めたように、葵が夜光を見返った。その青みがかった瞳は明るく晴れ渡っていて、何も迷うことなく夜光を捉えた。
 いつも通りの葵を見て、夜光はほっと胸を撫で下ろした。本当に情けない子供のようだとは思うけれど、葵がいなくなってしまいそうな不安は、たとえ錯覚であっても、夜光を身震いさせた。
「いいえ。何か考えごとでも?」
 つい葵の手をしっかりと握ったまま、夜光は訊ねた。葵は何事もなかったように、ぐるりと周囲を見渡した。
「少しな。あまりに見事な桜だから、昔を思い出していた」
「昔?」
「まだ夜光に出逢う前のことだ。その頃住んでいた屋敷の近くにも、見事な桜があった。春になると屋敷中の者達を集めて、その下で夜通しどんちゃん騒ぎをしていたんだ。それを思い出していた」
「まあ。せっかくの桜ですのに、騒ぐばかりだったんですか?」
「そう言うな。桜だってしっかり見ていたぞ」
「あやしいものですね」
 少しおどけたふうに話す葵に、夜光も思わず小さく笑っていた。
 そうしながら、ふと、ああそうか、と腑に落ちた。
 ──夜光が桜に遠く懐かしい故郷の幻影を見ていたように、葵もまた、桜の影に遠い幻を重ね見ていたのだ。今はもう喪われてしまった日々の、遠い思い出を。
「行こうか」
 言いながら荷を担ぎ直した葵に、夜光も思い出をなぞることを中断し、気持ちを切り換えた。
「はい」
 こたえて夜光も荷物を持ち直し、参道の先に見える本堂に目を向けた。


 蓬莱の信仰に夜光はあまり詳しくはないが、旅の先々で出会う寺院や仏閣、神社の類いは、いずれも興味深かった。終の涯にもそういう場所はあったし、己の智の及ばぬ大いなる存在を畏れ敬う精神は、夜光にも理解出来た。
 足を運んでいくと、古びた薄暗い本堂の奥には、穏やかな表情をした木彫りの像が祀られていた。
 蓬莱では祀られているものも様々で、夜光が知っているものもいれば、まったく知らないものもいる。そこにあったのは見知らぬ姿の像だったが、夜光は葵と一緒に、並んで静かに手を合わせた。
 こういった場所には、建立に携わった者達やここを訪れる人々の、祈りや心の痕跡が伺える。そういったものにふれることで、間接的に「人間を知る」ことに近づけるかもしれない。それに、人間のことは嫌いだが、真摯な祈りや信仰そのものを穢すつもりはなかった。
 合わせた手を下ろすと、葵は隣で、まだ手を合わせて何かを祈っていた。葵の夕陽を思わせる朱色あけいろの髪と長い睫毛に、桜の木漏れ日が淡く煌めいている。その静かな横顔に、夜光は惹きつけられた。
 葵は普段から表情が穏やかで、暢気に見えるほどよく笑っている。なので見落としてしまいがちだが、こういうときに、その所作がさり気なく整っていること、顔立ちや雰囲気に気品といっていいものがあることに気付く。
 それは生まれついての品位なのか、あるいは生まれ育ちが培ったものなのか。そのどちらでもあるように、夜光には思えた。惚れた欲目とやらいうやつかもしれないが。
 じきに葵が手を下ろし、見つめる夜光の視線にとっくに気付いていたように、見返ってにこりと笑った。
 何を祈っていたのか聞いてみたい気がしたが、無粋にも思えて、夜光も微笑を返した。
 それに、聞かずとも分かる気がする。葵のことだから、きっと自身のために祈ったりはしない。葵が祈るとしたら、きっと葵にとって大事なもののためだ。
 手を合わせるために下ろしていた荷物をそれぞれ持ち直して、二人は参道を戻り始めた。
 この場所は、ちょっとした高台にある。下へと続く長い石段の上からは、あたりの風景がよく眺められた。
 麓にある人里の一隅に、大勢の人間が集まっている様子が見える。どうやら今日は市場が立っているようで、近隣からも人々が集まってきているらしく、ここへ来る途中、かなり里は賑やかだった。
「市が立っているなら、寄ってみてもいいか。どうする?」
 葵に訊ねられ、夜光は少し考えた。
 あまり人間の多い場所に足を踏み入れたくはなかったが、快い春風と桜に、いつもより心がほぐれていた。通り過ぎたら二度とは訪れないだろう場所でもある。どうせなら、訪ねてみてもいいだろう。
「ついでですから、覗いてみましょうか。何か役に立つものがあるかもしれませんし」

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