花衣に眠る (二)

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 この人里は、街道沿いから少し入った先の、連なる山嶺の裾野にあった。山を下ってくる豊かな清流から水を引き、あたりには広々とした農耕地が広がっている。
 なんでも昔、たいそう桜好きな領主がいたそうで、里の随所に桜が植えられている。あの高台の御堂を彩っていた桜も、当時の領主が寄進したものだそうだ。
「ほう。これはまた賑やかだな」
 里の目抜き通りで開かれている市場に着くと、その活気づいた様に、葵は声を弾ませた。
 遠く京師みやこでは雲上人達の間で長いこと権力争いが続き、すっかり世の中は不安定になっていたが、このあたりには大きな波乱は及んでいない。
 上質な生平きびら麻の産地として知られるこのあたりは、街道近くで川があるという立地も手伝い、人や物資の流通も豊かな様子だ。それを示すように市場は人も物も賑やかで、ほうぼうに取り付けられた桜の花を模した飾りが、いっそう華やかだった。
 飛び交う客引きの声や笑い声、軽妙なお囃子の中、被衣に編笠と旅装の二人は、すんなりと人の流れにとけこんだ。
 黒髪黒眼が普通な人々の間に入ると、葵も夜光も、髪や瞳の色が異彩だ。
 人目をひくことを極度に嫌う夜光は、纏う者の姿形に目くらましをかける被衣を、人前ではまず外さない。夕映えそのもののような朱髪を持つ葵も、近頃は編笠の中に長い髪をたくし上げていることが多かった。葵本人はあまり秘める気もないのだが、やはりときとして余計な混乱を招くことがある。最初から面倒を招かずにすむのなら、その方が良い。
 通りの両脇を埋める露店には、様々な食べ物の他、この土地の特産品である亜麻糸や麻織物などを使った工芸品も多く並んでいた。空いた場所では大道芸人がところ狭しと歌や踊りなどの見世物を披露し、あやしげなうらて屋なども居る。
 春うららの陽気の中、それらを眺めて歩いているだけでも楽しい。と、ひとつの露店の前で、「おや」と夜光が足を止めた。
 夜光は白い被衣の裾をたくし上げて、露店の前にかがむ。そこは雑貨屋で、夜光が見ている先には、指の先程度の大きさの、様々な形の石が並んでいた。
「これ」夜光の細く白い指が、中の一つ、うっすらと紅色のついた結晶の塊を指した。
「中に『虫』がいますよ」
「むし?」
 心なしかうきうきしたように見える夜光の隣に、葵も屈みこむ。
「はい。蜥蜴……いえ、守宮やもりでしょうか。中に、骨の欠片と一緒に閉じ込められていますね」
「ほほう?」
「とても古い……ひとがこの地に流れてくるよりも前のもののようです。随分寂しがっていますね。小さいけれど、なかなかどうして、尊い子です。昔は、ここの土地神に縁があったようですよ」
「ほほう……?」
「おや。そいつが気に入りましたか、お客さん」
 話が見えずに葵がきょとんとしていると、他の客の相手をしていた露店の主が、そんな夜光に気が付いて声を投げてきた。ほっかむりに白い髭を伸ばした、背中の丸い年嵩としかさの男は、ひとの好さそうな笑顔で続けた。
「そのへんの石は、近くの川の底から引き上げられたものなんですよ。なかなか綺麗でしょう」
「ええ。良い石ですね」
「値打ちものなんかじゃないですがね。旅の人ですか? 気に入ったなら、安くしておきますよ」
「おいくらほどでしょう」
「そうさね。ついでにこいつとこいつもつけて、これくらいでどうです?」
「そうですね……それでしたら、こちらの品も一緒につけていただけませんか」
 存外にてきぱきと、露店の主と交渉を進めている夜光に、葵は眺めながら内心で感心する。ふわりと優しげな容貌も手伝って、どこか儚げで浮世離れして見える夜光だが、実は意外なほどしっかりしていて、こういう世俗的な金銭の遣り取りなどは、むしろ得意ですらあるようだ。
 目当ての薄紅色の石以外にも、いくつかの品をお手頃以下の価格で買い取った夜光は、嬉しそうに石を胸元に抱きながら立ち上がった。
「良かった。あとでここの土地神様に、一言ご挨拶をしていかなければ」
「挨拶?」
「ええ。この子を引き離して連れてゆくことになるので。小さいとはいえ、この子は土地神の眷属だったものですからね」
 薄紅色の石を、一緒に買った麻布で丁寧に包み、夜光は大事そうに懐にしまった。そういったいたわりに満ちた表情を、夜光は人間相手に向けることはまずないが、「人ならぬもの」たちにはよく向ける。
 夜光が石を丁寧に扱う様子を、露店の主もにこにこと見上げていた。その人好きのする笑顔に、葵も軽く会釈をしながら、夜光に言った。
「そうか。俺にはよく分からんが、まあ良かった」
 葵も「人ならぬもの」の存在を感じたり、たりすることもあるが、夜光ほどそういった能力に秀でていない。だが夜光がそうしたいというのを拒む理由はないし、何より夜光が嬉しそうにしていることは、葵にも嬉しかった。
 そうして露店の前から、二人が歩き出そうとしたときだった。
「ちょっ……お、お待ちを。お二人とも。ちょっとお待ち下さらんか」
 随分と焦ったような声に、葵と夜光は足を止める。露店の主が目を丸くして、今にもむしろから腰を上げようとするのが見えた。
 ひどく慌てた様子のその目は、夜光ではなく、葵に向けられていた。立ち上がった主が「うわっ」とつんのめったのに、咄嗟に葵は手を伸ばした。
「も、も、申し訳ありません」
「いいえ。どうなさいました?」
 支えたまま問うた葵に、その両腕につかまったまま、露店の主は視線を上げた。ほっかむりの下から、こぼれるほど目を丸くして葵を凝視する。すがりつくような強さで葵の腕をつかんでくる、露店の主のその腕は、細かく震えていた。
「あ、あの……す、すみません。どうか、その、笠を……笠を外してみてはくれませんか……?」
「え?」
 突然のことに、葵も驚いていた。露店の主の様子は、明らかにただごとではない。あたりにいた人々からも、何事かとちらちら視線が向けられてくる。
「あの、いったい……?」
 かぶった編笠を外すのはたやすいが、主のあまりに必死な様子に、さすがに葵も訝った。そしてふと、眉間を揺らした。
 ──この男の声音。どこかで覚えがありはしないか。その顔立ちにも。ほっかむりや刻まれた深い皺、伸びきった髭が邪魔をしているが、見覚えがありはしないか。
 記憶にあるものそのままではない。声の出し方や喋り方にも違和感を覚える。だが確かに、自分はこの男を知ってはいないか……それも、とてもよく。
「……分かりました」
 露店の主を見返したまま、葵は編笠を留める顎紐に手をかけた。紐をほどいて、笠を外す。笠の中に丸め込んでいた、ひとつに結い上げた長い髪が落ち広がって、桜混じりの風にさあっと靡いた。
 鮮やかにあかい髪が、陽光を受けて光る。その様子を見上げていた露店の主が、ますます目を見開き、ああ、と大きく息を吸い込んだ。
「まさか、ここで……ここでお会い出来るとは、思いませなんだ」
 大きく見開かれた目に涙が盛り上がり、ぼろぼろと頬に零れた。震える腕で葵の腕を握り、そこに額を押しつけるように頭を下げて、震える涙声で男は言った。
「お会いしとうございました、……若……!」
 その震えも声も、男以上に驚愕と衝撃に打たれた葵には、受け止めるだけで精一杯だった。
 自分のことを「若」と呼ぶ、その相手のことを、忘れるわけがなかった。かつて見舞われた凄惨な戦火の中ではぐれてしまった、もう生きてはいるまいと思っていたその存在を。たとえどれほど時が巡り、一切が遠ざかってしまったのだとしても。
「……げん爺」
 それだけを、ようやく口にした。かつて目の前の男をそう呼んでいた、その頃のまま。
 それを聞いた男が、ばっと顔を上げる。感激のためか歓喜のためか、葵を見上げたその頬が紅潮した。いっそうぐしゃぐしゃの顔を再び伏せ、人目も憚らずに号泣し始める。
 その記憶よりも随分丸まった背を、葵は抱き締めた。まだ信じがたい思いがあったが、目の前で泣く姿を見、その身に触れて震えと体温を感じると、葵の裡にもまた、一気に甦ってきた記憶と感情が、堰を切ったようにあふれ出した。
 熱いものがこみあげてくる喉で、波立つ心と身体をなんとか抑えようと、ひとつ息をつく。葵はゆっくりと、噛み締めるように言った。
「よく、生きていてくれた……」

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