花衣に眠る (三)

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 露店の主──源爺と葵に呼ばれた老爺は、ひとしきり号泣すると、こうしてはいられないとばかりに露店を片付け、二人を自身が住まう家へと案内した。
 夜光には葵と老爺との関係は分からなかったが、葵を「若」と呼び、葵もまた「源爺」と呼んだそこに、察するものはあった。それは、夜光が葵と出逢うよりも前……葵がまだ人の世で、豪族の直系男子として生きていた頃に由来することなのだろう。
 二人が案内されたのは、目抜き通りからいくばくか離れたところにある、静かな住居だった。
 屋敷というには手狭だが、老爺一人が住むには広い。古くはあるが、梁や柱の太いしっかりとした造りで、小さいながら厩も備わっていた。
 畳こそ敷かれていないが、土間から上がった先にはいくつか部屋がある。奥座敷からは庭が眺められた。黒光りする板敷きがよく磨き込まれたそこに、夜光と葵は通された。
「急なことで何もありませんが。茶くらい用意して参ります」
 源爺はてきぱきと二枚の円座わろうだを上座に用意し、そう言っていったん姿を消した。
 葵はともかく、自分まで同じ扱いを受けて良いのだろうか、と夜光が戸惑っていると、葵が軽く笑って促した。
「おまえは俺の伴侶だろう。何も遠慮をすることはない」
「……はい」
 白い被衣を目深に下ろしたまま、夜光は葵の隣に並べられた円座に腰を下ろした。
 縁側から見える庭には一本の桜があり、満開の花を纏う枝を見事に広げていた。ひらひらと音も無く、縁側ばかりでなく部屋の床の上にまで、白い花びらが舞い込んでくる。
 雀やひよどりの囀りに混じって、どこかで鶯が鳴いていた。差し込む柔らかな陽光に、あたりを漂う埃がきらきらと反射している。
 時が静止したように思えるほど、ひどく静かだった。夜光はしばしぼんやりと、白く光の透ける桜を眺めていた。
「夜光。すまなかった」
 ふいに、隣に座っている葵が言った。あたりの静けさを乱さぬ程度の声音に、夜光は葵に視線を移す。小さな動きに、肩で切り揃えられた乳白色の髪が、さらりと前に落ちた。
「何がです?」
「いや。思わぬことに、俺もつい気持ちが昂ぶってしまった。おまえが戸惑うのも当たり前だ。すまない」
 恥じ入るように俯いた葵に、夜光は紫の瞳を瞬かせた後、目許を和らげた。
「そんなこと。……それは、少しは驚きましたけれど」
 懐にしまったままの、先程露店で手に入れた薄紅色の水晶に、夜光は着物の上から手をふれさせた。石の中に閉じ込められた守宮から伝わってくるあの老爺の情報は、不快なものではなかった。源爺は丁寧に品物を扱い、とくに石は毎日よく磨き、いつも朗らかに誠実に商いをしていた。
「人間のことは、私は嫌いですが。あの御仁が悪いお人ではないのは分かります。きっとわけありなのでしょうとも。……昔の、お知り合いなのでしょう?」
 昔──夜光と葵が出逢う前。
 夜光の言葉に、葵は顔を伏せたままで頷いた。
「そうだ。あの人……源爺は、俺の屋敷の家宰だった人でな」
「はい」
 夜光は、ただ頷きながらそれを聞く。
「爺は、俺が生まれる前から本家の方に仕えていて。俺が生まれてからは、ずっと俺の近くにいてくれたんだ。母上は俺が物心つく前に亡くなっていて、父上は俺に関わりたがらなかったから、実質親がわりに近い人だったな」
「そうなのですか」
 葵は過去のこと、とりわけ「身内」のことを話したがらなかったから、葵の口から両親のことを聞いたのは、夜光もこれが初めてだった。実の兄に疎まれて謀殺されかかるほどだったのは聞いていたけれど、母親をほとんど知らず、父親とも疎遠だったのか。
 葵は苦笑しながら話を続けた。
「爺は俺のお目付役というか、世話係みたいなものだったんだ。俺はあまり出来の良い若様じゃなかったから、何かあるとしょっちゅう叱られていたよ」
「まあ。そんなに?」
「そんなにだ。爺は厳しかったからなあ。ことに礼儀作法や手習いに関しては、それはもう鬼のようだった。おかげでまあ、俺でもなんとか若様っぽく振る舞えるようになったが」
 葵はおどけるように言った後、胡座をかいた両膝に肘をつき、組んだ手に額を伏せた。高いところで結い上げた艶のある夕陽色の髪が、その横顔を覆うように流れ落ちた。
「……だから、爺も俺から目を離せなかったんだと思う。あの日も、最後の最後まで俺について来て……気が付いたら、戦場いくさばではぐれていた」
 ──実の兄に謀反の濡衣を着せられ、討伐兵を差し向けられた。かつて見舞われたその悲惨極まる出来事を、今葵は、否応なしに思い起こしているのだろう。
 その絶望的な戦いによって、かつての葵は文字通り一切を失った。それまで住んでいた屋敷も、生活も、身分も、周囲にいた人々も。すべてが血煙と業火の向こうに消え、重傷を負った葵自身も、一切を覚悟して海に身を投げた。──そしてどうした巡り合わせか終の涯に流れ着いて、夜光に出逢ったのだ。
 葵は顔を上げ、自分を宥めるように、ひとつ深い息を吐いた。その表情は、泣き笑いのようだった。
「俺は、それは大勢に苦労をかけて生きてきたが。中でもたぶん源爺は、いちばん苦労をかけた人だ……」
 胸に溜めて抑えてきたあらゆるものが、溜め息と共にほんの僅かに零れ落ちたような呟きだった。
 その呟きの下に秘められているのは、それこそ夜光には想像もできないほどの、途方もない深く惨い傷痕。拭えぬ過去によるそれを、普段の葵は穏やかさの下に秘めて、決して見せはしない。けれど抜けない楔のように、魂の奥底に沈殿し続けている。
「……そうでしたか」
 出逢う前のその傷に、自分が何を出来るのか、どう接すればいいのか、夜光にはよく分からなかった。けれど胸の奥がたまらないほど切なく痛み、思わず手を伸ばして身を寄せ、葵の片腕をそっと抱き締めていた。
 そんな夜光に、葵は微笑むと、そのやわらかな乳白色の髪を撫でた。
「大丈夫だ。もう全部、過去のこと──もう終わったことだ」
 もう全部過去のこと。そんなふうに口に出来るようになるまで、葵はどれほど悩み、葛藤してきたことだろう。
 葵はすすんで過去のことを話したがらなかったから、夜光もあえて訊ねようとはしてこなかった。出逢って間も無い頃に、終の涯に流れ着いた経緯くらいなら聞いてはいたが、思えば葵の「昔の話」を聞いたのはそれくらいだ。
 夜光も「昔の話」は、あえて口にしない。葵に知られたくないというよりも、思い出したくない、口にするだけでもつらいからだ。きっと葵もそうなのだろうと思う。
 自分達の前には、過去ではなく今と未来が広がっていたから、それで良いと思ってここまで来たけれど。
 そのとき縁側を歩いてくる足音が聞こえ、夜光は慌てて葵から身を引いた。衣の裾を整え、円座に正座し直したところに、土瓶と茶碗を載せた盆を持って源爺が戻ってきた。
「どうも、お待たせいたしました」
 折り目正しい動作で一礼し、源爺は二人の前に腰を下ろして盆を置いた。伸びた髭も肌に刻まれた皺も先程までと変わらなかったが、茶碗を返す仕種からその表情ひとつにまで、まるで生き返ったように芯が通っていた。
「このあたりでよく飲まれている、いくつかの香草を併せて煮出したものです。これはこれで、そう悪くない味かと存じます」
 源爺は土瓶から茶碗に茶を注ぎ、夜光と葵の前に置きながら言った。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたんだ」
 葵は茶を一口含み、にこりと笑った。
「うん、良い香りだ。味も良いな。飲みやすい」
「ありがとう存じます」
 嬉しそうに源爺も笑う。茶を飲む葵をじっと見つめるその皺深い眦に、こらえきれないようにまた光るものが滲み、慌てたように節くれ立った手で拭った。
「いや、すみません。すっかり涙もろくなってしまって。あれから四年……もう五年にもなるのでしょうか。きっと生きておられる、と信じてやってきましたが、正直もう駄目なのではないのかと……これは本当に、夢ではないのですな」
「これが夢なら、俺は神仏を恨むぞ」
 葵は笑いながら、しかし真摯な眼差しで源爺の顔を覗き込んだ。その骨張った背を宥めるように、あるいはねぎらうように葵が軽く叩くと、源爺は何度も頷きながら涙を拭った。
 そんな二人のやりとりを見ながら、夜光も一礼して茶碗に手を伸ばした。爽やかな香りのする茶は、苦みの中にも不思議とほんのり甘味があるような、口当たりの良い味がした。
 しばらくお茶を飲んで一息ついた後、源爺は二人の前に姿勢を正して座り直した。そうして畏まると、丸まっていた背もぴんと伸びて、それだけで随分若返って見えた。
「そういえば、お連れの方にはきちんと挨拶もしておりませんで。私は昔、葵様にたいそうお世話になったことがありましてな……」
「ああ、爺。良い。夜光──連れ合いは、だいたいの経緯を知っている」
 横合いからの葵の言葉に、源爺は驚いたように目を丸くした。
「なんと、そうでしたか。して、連れ合い……?」
 はて、と源爺は首を傾げた。彼からすれば、頭から被衣をかぶって素顔を見せず、ほとんど喋りもしない夜光など、得体の知れないことこの上ないだろう。それでも、敬愛する若君の隣に夜光がいるからこそ、何も言わずに礼を持って遇してくれているのだ。
 さほどもなく、源爺は夜光に向かって威儀を正した。
「さすれば、隠さずに名乗らせていただきまする。私めは木原きはら源之助げんのすけと申します。葵様には、ご幼少の頃よりお仕えさせていただいております。よしなに宜しくお願い申し上げまする」
 源爺こと源之助の目は、にこやかに笑いながらも、明らかに夜光を値踏みしていた。今尚「仕えている」と言い、過去形を使わない源之助に、夜光の背も思わずいくらか伸びた。
「失礼を致しました。私は……」
 言いさして、夜光は止める。こういう手合いには、少なくとも嘘をついたり誤魔化したりはするべきではないだろう。それに葵が夜光との間柄を隠そうとしていないのだから、夜光も倣うほうがいい。源之助が悪い人間ではないことは、既に分かってもいた。
 少し考えて、目深にかぶった被衣に白い指をかけた。静かに被衣を肩にすべり落とす。源之助の目が、いっそう大仰なほど丸くなった。
「私は夜光と申します。縁あって、葵と終生の縁を結ばせていただきました。どうか、お見知りおき下さいませ」
 源之助は、夜光を見たまま口をぱくぱくさせている。葵の朱髪で多少は「普通と違う」ものも見慣れていただろうが、夜光の月光を集めたような髪色に紫苑色の瞳など、さすがにお目にかかったことはないだろう。
 その様子を見て、葵は含み笑うようにしながら何も言わない。
「わ、わ……若」
「何だ?」
「な……な……何だ、では、ございませぬ!」
 ようやく、源之助が声を上げた。夜光と葵とに忙しく視線をいったりきたりさせながら、ひっくり返った声で続ける。
「こ、こ、このような! と、と、とても、人とは思えませぬ……なんという、その……ま、まるで人あらざる……これでは、まるで……天人の如くではございませぬか……」
 言い終わりのほうでは完全に勢いをなくした源之助の様子は、明らかに夜光の容姿にすっかり見惚れていた。しかし同時に、なんともいえない複雑な表情で困惑している。そんな源之助に、葵がこらえきれないように笑い出した。
 天人、という源之助の感想に、夜光は出逢った直後の葵が、自分を「天女」と称したことを思い起こしていた。なんとなく「源之助が実質葵の育ての親」であることに納得しながら、はたして口を挟むべきかと考える。しかし、夜光が下手に口を出すとこじれそうではある。
 考えながら眺めていると、珍しいほど声をあげて笑っている葵に、源之助がハッとしたように目を吊り上げた。
「若!」
「いや、そう大きな声を出すな。相変わらずだなあ、爺は」
「相変わらずは若もでございます。しばらくお会いしていなかったと思えば、かような御方を連れておられるとは。ある意味安心いたしました」
 まだくつくつと笑っている葵を、源之助はキッとにらんだ。
 葵はようやく笑いをおさめると、あらたまったように膝に掌を置いた。
「見ての通り、夜光は少しばかり人目をひく。ゆえに姿形を隠していた。でも爺ならば夜光をおろそかにはするまいと思えばこそ、正直に連れ合いだと明かした」
「それはそうでございまするが……」
 源之助は思考と感情を決めかねているように、むう、と大きく口をへの字に曲げている。
「爺。夜光は、あの戦で死にかけていた俺を助けてくれたんだ」
 葵の言葉に、源之助はまた目を大きく見開いた。葵と夜光とを、確かめるように交互に見る。
「なんと。それは真にございますか?」
「嘘を言ってどうする。夜光がいなければ、俺はあのとき死んでいた。無論、俺が夜光を選んだのはそれが理由ではないが」
 葵は源之助を正面に見ると、声音は静かに、だが真っ直ぐに告げた。
「夜光は俺の、ようやく見付けた終生の伴侶だ。こればかりは、爺にも何と言われようと譲れない。夜光がいなければ、俺は半身をもがれたも同然になる。言いたいことはいろいろとあるだろうが、どうか分かってほしい」
「…………」
 源之助は「むう」と腕組みをし、難しい顔で下を向き黙り込んだ。
 夜光は口を挟むべきではない空気を感じ、あえて無言で控えながらも、葵の言葉が繰り返し胸の裡に響いて、思いがけず目頭が熱くなっていた。
 葵がいつでも、誰にでも、こんなふうに真っ直ぐに向き合って夜光の存在を認めていてくれるから、夜光も葵を信じて何も怖れずにいられる。葵がいなければ半身をもがれるも同然なのは、夜光も同じだ。
 長いこと黙り込んだ末に、源之助は、はぁ、と深い溜め息をついた。
「……若が言い出したら聞かないのも、今に始まったことではございませぬな」
「すまんな、我が儘ばかりで」
「まったくでございます。ですが。若がご自身のために何かを望まれるのを、今日このときまで、私はついぞ見たことはございませなんだ」
 葵を見た源之助が、ふいに相好を崩す。それから夜光を見て、ひとつ納得したように頷くと、源之助は二人に向かって深く平伏した。
「承知致しました。夜光様、その節は、若のお命を救って下さいましたこと、心より感謝を申し上げます。貴方様がおられなければ、こうして若と再会を果たすことも叶いませんでした。此度のお二方のこと、心よりお喜び申し上げます。若同様、夜光様も、今後は我が主と思ってお仕え申し上げます。宜しくお願い致しまする」
 葵が肩の力を抜くように微笑した。
「ありがとう、爺」
「なんの。若がこの爺を信じて下さったと仰るのであれば、応えぬわけにも参りませぬよ」
 二人の遣り取りを見守りながら、夜光もまた安堵し、そっと息をついた。葵と縁の深い人物に受け入れてもらえるのであれば、それは素直にありがたいことだった。
 それに源之助は、驚きこそすれ、夜光を一切奇異の目で見ることがない。そのことが、ささやかだけれど嬉しい。無闇にこちらを恐れず、壁を作らずにいてくれる相手ならば、臆病な夜光でも、少しでも歩み寄ってみようかという気持ちになれる。
 夜光は指先を揃え、源之助に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう存じます、源之助様……私のほうこそ、よろしくお願い申し上げます」
 源之助はそんな夜光を見ると、眦に深い皺を刻み、しみじみと笑った。
「面を上げて下さりませ。これまで何も欲しがらなかった若が、ようやく望まれたことにございます。……正直を申し上げますと、むしろ私も嬉しいのですよ」

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