花衣に眠る (四)

栞をはさむ

 五年という歳月によって隔てられ、それだからこそ尚更に、葵と源之助の間で話は尽きなかった。
 やがて次第に陽は西に傾き、源之助の「しばらくここを宿にして下さい」というすすめを、二人は受けることにした。
「主たる御方にそんなことはさせられません」と、手伝い全般を源之助が頑なに拒否したため、ひとまずその日は、夜光も葵も客人の立場に甘えることにした。
 そう贅沢なものではないが、源之助が心づくしの夕餉と酒を用意してくれた。その夜は、行燈の明かりの中、三人で膳を囲んだ。
 傍で見ていても分かるほど、源之助は終始にこにこと、本当に嬉しそうだった。葵に対しては勿論、夜光にも、常に気を利かせてよく尽くしてくれる。葵のために何かをやれる、何なら葵の近くにいられるだけでも嬉しい、というのが、見ているだけで伝わってくる。
 葵もそのあたりは承知しているのか、源之助のやりたいようにさせていた。葵もまた、普段以上によく笑い、口数も増えていた。源之助に対しては、夜光に対してとはまた少し違う気易さと親密さがある。何より「尽くされる」ことを自然に受け入れているのが、夜光のよく知る葵とは少し違うように見えた。
 ある程度食べ、注がれた酒を一杯干したところで、夜光は席を立つことにした。
「つもる話もありましょうし、今宵は私はこれで。少し疲れましたし、先にやすませていただきますね。葵と源之助様は、どうかお気になさらず」
 夜光がいない方が、気兼ねなく二人もいろいろと話すことが出来るだろう。それに正直、少し所在ない気持ちもあった。
 夜光の気遣いを察したのか、葵が「おやすみ。ありがとう」と言い、源之助も「おやすみなさいませ」と深く頭を下げた。
 寂しい気もしたが、「過去の葵」は夜光の知らない葵だ。夜光も葵も別々の人生を歩んできているのだから、ときには踏み込めない部分もある。少なくとも今夜は、この場に夜光が居座り続けるのは無粋というものだろう。
 寝間にと用意してもらった部屋に移動し、寝支度をととのえて、夜光は寝床に横になった。
 今夜は月と星が明るいのだろう。縁側に面した障子が、ことのほか青白く浮かび上がっている。庭の桜はこの部屋からは見えなかったが、少し開けてある障子の隙間から、ひらりはらりと、月明かりを受けて光る花びらが舞っているのが見えた。
 ぼんやりとそれを眺めながら、ふと、妙に寄る辺ないような、足元が頼りないような、そんな気持ちに襲われた。
 葵の隣にいられないことが切ない。自分の知らない葵がいることが、寂しくてもどかしい。
「何を子供みたいな……」
 隣に敷かれた空の寝具が目に入り、夜光は掛け布を頭の上まで引っ張り上げた。
 葵がからむと、本当につくづくたわいもない幼子のようになってしまう。そんな自分にうんざりする。
 目を閉じて眠ろうと努め、何も考えまいとした。そう思えば思うほど、しかし心は無防備になってゆく。
 夜光は溜め息をついて、寝返りを打った。
 ──頭では分かっている。夜光と知り合う前、多くの者にかしづかれて「若」と呼ばれていた頃の葵は、夜光には少し遠い存在なのだと。
 今の葵にとって「過去の葵」は、ある意味まさに「亡き者」だ。出逢って間も無かった頃、葵は蓬莱で身につけていたものを、匕首一本を除いてすべて炎にくべた。あのときの静かに空に昇ってゆく煙の筋を、今でも鮮明に覚えている。
 あれはまさしく、葵は過去ごとを荼毘にふしたのだと思う。戻れない過去を葬ることで、葵はようやく「生きて前に進む」ことができたのだ。
 葵に「死」ではなく「生」を選ばせたのが夜光の存在であるなら、むしろ夜光は、葵の過去から切り離されていなければならない。まして思い出は、当時を知る者同士でなければ共有できないのだから、そこに入り込めないことにやきもきしても詮無きことだ。
 分かっているのに、感情はさざなみのように揺れる。どんなときでも、葵にとって最も近い存在でありたい。葵のことならなんでも知りたいし、少しでも葵の意識が、自分には割り込めない他に向くことが切ない。
「駄目だな、私は……」
 自己嫌悪と情けなさとで、夜光は泣きたい気持ちになった。
 今回のことも、葵にとっては本当に喜ばしい出来事だろうに。どうしても、手放しで喜ぶことが出来ない。それどころか、葵を何処かへ攫われてしまうような気さえする。
 何度も溜め息をついて、寝返りを繰り返した。それでもいつの間にか、旅の疲れがまさったのか、夜光は眠りに落ちていった。


 月がまだ高いうちに、葵も寝間へと足を運んだ。旅暮らしだったのであれば疲れているだろう、という源之助の配慮でもあり、葵自身も久し振りによく喋ったことで疲労を感じていた。
 少し開かれていた障子を、静かに開けて部屋に入る。並べて敷かれた寝具の奥側に、夜光が横になっていた。
 物音を立てないように、夜光の枕元に寄ってみる。夜光はこちらに背を向ける格好で、静かな寝息を立てていた。
 夜光もいろいろと疲れていたのだろう。よく眠っているようで、葵が間近から覗き込んでも、目を覚ます気配はなかった。
 今日起きたことを思い、夜光の気遣いを思う。その睫毛の長い無心な寝顔を見ていると、葵は胸の奥から滾々と、切ないほどの夜光への愛しさが満ちてくるのを感じた。
 本当は、いろいろと気になっているだろう。思うことも、言いたいこともあるだろう。しっかり者で超然としているように見えて、夜光は実はとても寂しがりやだ。
 それと分かっていて、今夜は夜光に甘えてしまった自覚があった。こんなことは、他の誰に対しても出来はしない。
 今すぐに、夜光を抱き締めたくなった。何も言わずに、ただ傍にいてくれる夜光が愛しい。その控えめな、けれど深く強く繊細な心が愛しい。
 抱き締めたかったが、それをしたら夜光を起こしてしまう。葵はなんとか自制して、夜光のまるい額にそっと口づけるにとどめた。
「ありがとう、夜光」
 囁くと、ん、……と少しだけ夜光は身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。
 葵は静かに隣の寝具に移動し、中にもぐりこんだ。横になって目を閉じると、葵もすぐに睡魔にさらわれた。
 明日は目が覚めたら、何よりも先に夜光を抱き締めよう。耳に届くように礼を言おう。そんなことを考えているうちに、意識がほどける。夢は、何も見なかった。


 翌日からは夜光と葵は、「とんでもない」と慌てる源之助を押し切って、家事の手助けを買って出た。
 若手の力や人手がある今でないと出来ないことは、いくらでもあるだろう。ましてや源之助は、元気に見えてもそれなりのご老体だ。
 源之助一人が住むには広すぎる家は、綺麗に片付けられてはいるが、普段は使われていないのだろう部屋や納屋は、やはり埃っぽい。頑丈だが古い建物には、少し傷んでいるところもある。
 幸い今日も、空は爽やかに晴れている。掃除や片付けをするにはうってつけだった。
 着物をたすき掛けにして、夜光は洗濯と屋内の掃除を。葵は薪割りと家屋の傷んだ部分の修繕を、それぞれ受け持つことにした。
「な、なりませんなりません、そのような」と、最初はおろおろしていた源之助だったが、夜光と葵が声をかけあって分業し、てきぱきと作業を進める様子を見ているうちに、止めるのは諦めたようだった。
「いやはや、まったく……。言い出したら聞かないのは、さすがというか。それもどうやら、聞かないのは若だけではないようですなあ」
 二人を眺めながら、源之助はやれやれというように笑う。以降、源之助は手出しをしようとはせず、指示程度のことをしたり、縁側に腰掛けて二人の様子を眺めたりしていた。
 途中で源之助の作ってくれた菜飯の握り飯を、三人で一緒に縁側で食べた。素朴な味わいのそれは、快い作業疲れと空腹もあいまって、この上なく美味だった。


 そうこうするうちに、西の空が茜色に染まり始めた。続きは明日にしようと、ふたりは作業を切り上げことにした。
 今日の夕餉の支度は、源之助と一緒に、夜光も土間に立った。
「こんな狭いところに三人もいたら邪魔です。若はあちらで座っていて下さい」と源之助にぴしゃりと言われた葵は、「邪魔はないだろう」とやや不満そうにしつつも、素直に言われた通りにしていた。
 やがて出来上がったささやかな夕餉を、今夜も三人で囲んだ。腹がふくれると、さすがに夜光も葵も、今夜は瞼が重くなった。
「もうおやすみになりますか?」
「そうする。源爺もあまり遅くなるなよ」
 葵と源之助でそんな会話をかわし、夜光は「おやすみなさいませ」と、源之助に軽くお辞儀をする。
 二人並んで寝間へと辞す後ろ姿に、源之助は深く頭を下げた。


 寝間に戻ると、さすがにくたびれていた夜光と葵は、早々に寝床に横になった。
 今夜は、葵がすぐそこにいる。それだけのことに、夜光は自分でもたわいもないと思うほど、身も心も安堵していた。
 隣の葵がすぐに寝息を立て始めるのを見て、夜光も眠気に逆らわずに瞼を閉じた。
 ──いいや。「それだけのこと」ではないのだ。
 愛しい人が、こうして健やかに、すぐ手の届くところにいてくれる。それはどれほど尊く嬉しく、幸せなことだろう。
 今朝、目を覚ますなり葵に抱き締められたことを、ふいに思い出した。葵は多くを語らなかったけれど、感謝を告げる言葉とその腕のあたたかさだけで、夜光は胸に澱んでいた重苦しさが薄れてゆくのを感じた。
 葵は分かってくれている。夜光の感じている不安や寂しさを。夜光の痛みを、ごまかさずに受け止めてくれている。
 こういうひとだから、信じられる。葵なら、決して夜光をひとりにしない。夜光を置いて、遠い何処かにいってしまったりはしない。
 あらためて噛み締めながら、葵の寝息を聞いているうちに、夜光もじきに眠りこんでいた。


 ──どれくらい眠った頃か。寝返りをうった拍子に、葵はふと目を覚ましていた。
 障子を透かす月明かりが青白い。静けさの中、庭先で鳴いている細い虫の声がする。
 隣の寝床の夜光を見ると、寝息をたててよく寝入っていた。昼間よく立ち働いていた様子を思い出し、葵は小さく微笑む。
 いったん厠にいっておこうかと、葵は静かに立ち上がって部屋を出た。
 春の夜気は心地良い涼みを帯びながら、しっとりと柔らかい。薄雲のかかる膨らみかけた月が、歳月とともにすっかり黒ずんだ床板を、静かに照らしている。
 欠伸をしながら、縁側伝いに厠まで歩く。用を済ませて戻ってくる途中で、奥の座敷から明かりが洩れ出ていることに気付いた。
 あの部屋は、確か源之助が書斎に使っている部屋だ。月の位置は出た頃よりかなり動いていて、今がそれなりの夜半である見当はついた。
 揺れる明かりのほうに足を運ぶと、紙燭を灯して質素な文机に向かい、源之助が何か書き物をしているのが見えた。
「こんな夜更けまで、精が出るな」
 声をかけると、源之助が「おや」と手を止めて見返った。
「どうなさいました、若。寝付かれませんかな」
「いや、目を覚ましただけだ。でもそうだな。よく眠ったせいか、一度起き出したら目が冴えてしまった」
 欠伸を噛み殺しながら言うと、にこりと源之助は笑い、手にしていた筆を置いて立ち上がった。
「それでしたら、少し何かお持ちしましょうか。爺も少し、御相伴にあずかりたくなりました」

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