花衣に眠る (五)

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 奥座敷とは続き間になった書斎からも、庭で咲いている桜が見えた。
 本来は奥座敷との間を板戸で仕切るのだろうが、住人が源之助一人のせいか、それは取り払われている。
 源之助が満たしてくれた杯を持ったまま、葵はぼんやりと、夜の中に佇む桜を眺めていた。
 ここの桜は、色がごく淡い。明るい陽光や月光の下だと、ほぼ白色に見える。風のない中、時折ひらりはらりと落ちる花びらは、淡く光る雪のようにも見えた。
「屋敷のそばにも、桜がありましたな」
 白い夜桜を隣で同じく眺めながら、源之助が言った。
「あったな。見事な桜だった」
 葵は手の中の杯を思い出して、一口含んだ。このあたりの伝統的な地酒だというそれは、白く濁っており、かなり強くて辛口だった。
「懐かしいですなあ。見頃になると、若が呼びかけて皆で集まって。夜通し騒いでおられましたな」
「呑みすぎだと、毎年爺に叱られていたな」
「毎年のように前後不覚になっておられましたからな。誰も若をお止めしないどころか、一緒になって酔い潰れている始末。何かあったらどうするつもりなのかと、いつも肝が冷える思いでしたよ」
 溜め息をついた源之助に、はは、と葵は笑った。
「年に一度の無礼講だったからな。許せ」
「私が許したところで、でしょう。まったく。咲耶姫の裳裾を穢すような罰当たりが居なくて幸いでしたよ」
「願わくは花の下にて、春死なむ。良い歌だとは思わないか?」
「若。冗談にしても」
 じろり、と源之助に見られて、葵はまた笑った。
「冗談だ。いや、冗談でもないが」
「どちらですか」
「良い歌だとは今も思うぞ。でも、今なら同じようには出来ないな」
 あの頃は、いずれ兄に殺されるのを待っているような心地で生きていた。それならいっそ、桜の下で死ぬのも悪くない──そんな投げ遣りな考えが少しも無かった、と言えば嘘になる。
 あの頃の自分が不幸だった、とは思わない。だが、何かを望む前に諦める癖がついていたあの頃は、生きることの根に、いつも空虚さがついてまわっていた。
 あの頃から比べれば、今はまさしく心が解き放たれたようだ。思うがままの在り方で居て良い。心の底から何かを望み、愛して良い。今の自分から振り返ると、過去の自分は、身分や義務、義理や使命という幾重もの重い鎖に、どれほど雁字搦めにされていたのだろうと思う。
 ──だが、それでも。
 また一口酒を含み、葵は杯の中で揺れる小さな水面を眺めた。
 強めの酒のせいか、源之助とこうしているとまるで過去に還ったように感じるせいか。いつもは考えるまいと閉ざしている心の綾と箍が、少し緩んでいる。
 ──もしもあの頃に戻れるのなら。あの戦が無かったことになり、皆が無事に生きていて、あの日断ち切られてしまった「未来」の続きを、皆と過ごしていけるのなら。それなら自分は、あの空虚な雁字搦めの中に戻ることも、厭いはしない。
 だがそんな夢想も、酔いに任せてさえ続かなかった。紙燭に揺れる小さな火に、一切を奪い、飲み込んでいったあの日の禍々しい炎が、束の間揺らめいて見えた。
 戻れるものなら戻りたい。だが、そんなことは絶対に出来はしない。自分のせいで、あまりにも大勢の命が、未来が断たれた。自分は生涯、奪われた皆の命を、流された血と苦痛を、あの日そのものを背負っていかなければならない。それこそが、生き残ってしまった自分に課された罰なのだと思う。
 黙り込んだ葵に何かを感じたのか、慮るように源之助もしばらく無言だった。葵が杯の酒を呑みきってしまったのを見て、源之助は黙って銚子を取る。葵はちいさく笑い、杯を差し出した。
 いくらか風が出て来たのか、庭の桜が闇の中に音も無く花びらを降らせている。そのまま、いくばくかの時間が流れた。
「──つきましては、若」
 どこかで名も知らぬ虫が儚げな声で鳴いていた。その静けさの中で、源之助が口を開いた。
「うん?」
 ぼんやりと眺めていた夜桜から、葵は源之助に視線を移す。ほろ酔い加減なのもあって、流れ込んでくる緩い夜風が心地良かった。
「来るべき旗揚げに備え、いずれはもっと西に拠点を移そうかと存じますが。若としては、時期はいつ頃がよろしいとお考えでしょうか」
 何を言われたのか、葵はしばらく理解が出来なかった。
 春の夜気と共に、この部屋にまで、一枚二枚と白い花びらが迷いこんでくる。ぽかんと源之助を見返したその頬のそばを、花びらの一枚が横切った。くるくると回りながら、花びらは黒ずんだ床に落ちた。
「……旗揚げ?」
 ようやく、葵は喉の奥から声を押し出した。何を言われたのか、源之助が何を言っているのか、まだ頭が追いつかなかった。
「はい。まずは各地に潜んでいる者達と連絡を取り、拠点を定め、然る後の移動とはなりますが。この家も、何かに備えて残してはおくつもりです。何でしたら、夜光様にここを守っていただいても良いかと存じます」
 源之助は、至極当たり前のことであるように続けている。
 迷いも澱みも一片も無い、本当に先程までの源之助と何も変わらない様子に、葵は一瞬、強い眩暈がした。うまく呼吸が出来ず、喉を何かに締め上げられたような息苦しさを覚えた。
「……各地に、潜んでいる? 源爺以外にも、落ち延びた者がいるのか?」
 手の中から取り落としそうになった杯を、どうにか膳の上に置いた。その指が、細かく震えていた。無意識に喉を押さえ、やっと呼吸している葵に、源之助は少しばかり声音を抑えて頷いた。
「はい。数人ですが、なんとか逃げおおせて、各々身を隠しております」
 源之助が挙げたいくつかの名前に、葵は覚えがあった。いずれの名にも連鎖して、その姿が浮かんでくる。
 思わず目の奥が熱くなった。全員、もう死んでしまったと思っていた。でも、ほんの数人ではあったが生きていたのだ。無事に生きていてくれたのだ。
 だが、単純にそれを喜ぶことも出来なかった。うまくものを考えられないほど、頭が与えられた情報で掻き回されている。
 そんな葵の様子を、ただ驚愕と喜びゆえのものだと思ったのか、源之助は先程まで書きものをしていた文机の上を示した。
「先頃私がしたためておりましたのは、皆への文なのですよ。何よりもまず、若のご無事を伝えねばと」
「文……?」
「はい。皆それはもう、一日千秋の思いでおりましたから。若がご無事であると分かれば、どれほど喜ぶでしょう。一日も早く伝えてやらねば、と思いましてねぇ」
 うっすら涙ぐみながら嬉しそうに言う源之助に、葵は愕然とした。
 ──終わっていないのだ。何も終わっていないのだ、源之助達の中では。あの血と業火に塗り潰された日々の続きを、そのまま生きているのだ。
 がん、と頭を鉄槌で殴られたようだった。今まで立っていた地面の底が、急に抜けたような感覚。目に見えていた世界の色が、白から黒に一変したようだった。
「馬鹿な……」
 やっと、言葉が出た。思考を拒否していた頭が、ようやく鈍く動き出す。熱を持ったように頭が熱く、こめかみのあたりがずきずきと痛んだ。
「若?」
 ただならぬ葵の様子に、やっと源之助が気付いた。
 葵は大きく息を吸い、だが大声を出すことはかろうじで抑えた。そのせいで、絞り出すような声音になった。
「……馬鹿なことを。旗揚げなど、俺はする気は無い」
 今度は源之助の方が、何を聞いたのか理解できないという顔をした。しばし唖然と口を開けたまま、葵を凝視する。
「若。今、なんと?」
 問われて、葵は強く源之助を見返した。頭の熱さが、背負い込んできた苦しみや哀しみが、やりきれない憤りに取ってかわろうとしていた。
「俺は旗揚げなどする気はない。おまえたちにも、一切の狼藉は許さない。そのような文は、すべて焼き捨てておけ」
 葵を凝視していた源之助の目が、みるみる見開かれてゆく。葵の言葉の意味を飲み込んだのだろう、信じられないというように、その唇は震えていた。
「何を仰います、若!」
「何を言うはこちらの台詞だ!」
 返す葵の声も、思わず高くなった。源之助と葵の間で、睨み合いになった。
「昔も今も、俺の考えは変わらない。兄上に刃向かうつもりは毛頭無い。だからあのときも逃げたのだろう」
「若は陥れられたのではありませんか。戦うよりも先に矛を奪われ、無抵抗でいたにも関わらず斬り捨てられたのです。兄君のなさりようはあまりに非道い、という声は、今尚多いのです。然るべき準備を整え、名乗りを上げましたならば、必ずや若のために馳せ参じる者達がおります」
「それでどうするつもりだ。俺に同情する声はあろうが、兄上の治世には大きな滞りもない。そこに俺が挙兵なんぞしてみろ。国が乱れて、周辺の虎狼どもにつけいる隙を与えるだけだ」
「さればこそ、我らに勝機も見えるのでしょう。兄君の統治が乱れるほど、事は我らの有利に働きます」
「俺に、再び血を流させる気か。俺はそれが嫌だと言っているんだ」
 なぜそれが分からないのかと、葵は歯噛みした。
 兄に対して、怒りや恨みが一切無い、とは言わない。だがそれ以上に、もう誰も自分のせいで死んでほしくない。自分のせいで死んでいった者達の名を、顔を、声を、残らず覚えている。まして戦が起きれば、罪の無い民草も巻き込まれるのだ。
「腰抜けとでも腑抜けとでも、言いたければ言うがいい。もう誰か一人でも、俺のせいで死ぬのはたくさんだ」
 吐き捨てるように言った葵に、源之助はしばし沈黙した。しかし納得したわけではないことは、その険しい表情を見れば一目瞭然だった。
「……それでは、皆の無念は、恨みは、どうなさいます」
 押し殺した声で言われ、はっと葵は源之助を見返った。さらに源之助はたたみかけた。
「若は、このままで良いのですか。あのとき死んでいった者達の口惜しさはどうなるのです。皆の死を、無駄死ににして良いのですか」
「──無駄死にではない!!」
 衝かれるように、葵は叫んでいた。その言葉だけは、聞き捨てがならなかった。それは心の臓を抉られるよりも苦しい言葉だった。
「皆のおかげで、俺は生き延びた。皆が命がけで、俺を生かしてくれたんだ。それを無駄死にと言うな。爺が、そんなふうに言わないでくれ。頼む……」
 どうしても声が震えた。涙が落ちそうになって、顔をそむけ下を向く。深く息を吸い、嗚咽しそうになる声を、どうにかととのえた。
「……甘いと言われても、俺は、せっかく生き延びたのならば、この先も生きてほしいと皆に思う。それは爺に対しても同じだ」
「若……」
 源之助は、ひどく驚いたような、胸をつかれたような顔をしていた。
 葵は懸命に声の乱れを抑えながら、胸の裡に溜め込み続けてきたことを口にした。
「死んだ皆の恨み言や無念なら、俺がすべて引き受ける。俺は、自分が極楽にいけるとは思っていない。……だからそれで、どうにか許してくれないか」
「……若」
 源之助は何か言いたげに口を開きかけ、だがひとつふうと息を吐くと、やめた。
 しばらくの間、どちらも何も言おうとしなかった。儚げな虫の声だけが、黒ずんだ板間の上を漂っていた。
 やがて源之助が、深い溜め息を吐いた。
「……まったく。本当に、言い出したら梃子でも動きませんな、若は」
 源之助は、気持ち姿勢を正すように背筋を伸ばした。
「分かりました。そこまで仰るようであれば、若を旗印に担ぎ出したとて、かえって皆の士気が削がれるだけでしょう。戦う気の無い将が、勝てる道理も無し。やむを得ません。大層な腑抜けだとは思いますが、諦めます」
「爺」
 主に対してとは思えないほど口が悪いが、それもわざとだろう。源之助は厳しい目付きで葵を見ていたが、そこでふいに、表情をゆるめた。
「ですが、若。これだけは誤解なさらないで下さい。私も含め、貴方様にお仕えしてきた者達の誰一人として、若のせいだなどとは思っておりません」
「……爺」
 ふふ、と沁みるような穏やかさで源之助は笑う。そして、ふいに言った。
「──若は、生きる理由を見出されたのですね」
 咄嗟に、葵は返事が出来なかった。皆の屍を足蹴にして「生きたい」と望むことの身勝手さ、罪深さは、言い繕えるものではなかった。とくに今の葵が「生きる」ことで置き去りにされる、葵の「過去」に属する者達には。
 葵が何も言えずにいると、今まで聞いたことのないひどく優しい声で、源之助は続けた。
「良いのです。あの日、貴方様のために戦った者、武器を取った者達は皆、貴方様に幸あれと思っていた。貴方様が、苦しみ嘆くことの無い世を望んでいた。だから良いのです」
「源爺……」
 静かな源之助の言葉を聞くとともに、あの日葵のために死んでいった者達の姿が、葵を主と立ててくれていた大勢の者達の姿が、次々に脳裏に甦った。
 本当にそうなのだろうか。皆、そんな気持ちでいてくれたのだろうか。こんなに出来の悪い、皆を守ろうとして守れなかった、情けなくて頼りない主なのに。
「源爺。俺は……」
 先程までとはまた違う涙が出そうになり、声が詰まった。言いたいことはいくらでもある。それなのに、何一つうまく言葉に出来なかった。
 源之助はそんな葵を真っ直ぐに見て、もう一度静かに笑った。そして葵に向かって深く低頭し、話を締め括るように言った。
「若。誰も、若を恨みはしません。そういう貴方様だからこそ、私達は若にお仕えしてきたのです。だから、もう良いのです。──この先は、若は若の望むままに、どうか生きて下さいませ」

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