花衣に眠る (八) -完結-

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 はらりはらりと、白い花びらが音も無く舞う。青い空に桜が透けるのを、夜光は庭に立って見上げていた。
 ──昨日、あれから夜光と葵は、長いことただ身を寄り沿わせていた。長い時間をかけてようやく葵が動けるようになると、二人で源之助の身体を清め、寝具を出して、そこに横たえてやった。
 その後も夜光と葵は、何をするでもなく、源之助の亡骸を守るように、一晩そこで身を寄せ合って過ごした。
 ぼんやりしていたかと思うと、思い出したように涙を流す葵を、夜光はただ抱き締めていた。そうこうするうちに、身を寄せ合ったまま、いくらかは二人とも眠っていた。


 長い夜が明け、あたりが明るくなってから、夜光と葵の二人で、庭に源之助の亡骸を埋めることにした。そのままにしておいても、いずれは近所の誰かが異変を察知してやってくるだろうが、それまで放っておくのは、あまりにも忍びなかった。
 葵の状態も夜光は心配だったが、夜が明けてからは、葵はもう泣くことはなかった。とはいえ瞳に力が無く、口数も極端に少ない。明らかに憔悴しており、泣きはらした目許も痛々しかった。
 しかし葵は、何もせずにいることの方がつらいようだった。源之助を埋葬する場所を決めると、葵は納屋から鍬や板材を持ち出し、無言で作業に没頭していた。
 埋める場所は、庭に一本だけ咲いている桜の下にした。樹に近すぎると根が張っているから、少し離れた場所にする。けれど頭上を見上げれば、豊かな枝が天幕のように張り出しており、青空に映える桜が美しかった。


 充分な深さを掘り、そこに源之助の亡骸を、二人で横たえた。着物を新しいものに替え、傷を覆って汚れも清められた源之助は、まるで穏やかに眠っているだけのようにも見えた。
 夜光は傍らに屈んで、横たわる源之助を痛ましい思いで見下ろした。
 源之助個人のことを、嫌いだと思ったことは無かった。夜光の知らない葵を知っていることや、葵が夜光には見せない表情を源之助には見せることで、胸がざわめきはしたけれど。葵を攫われてしまいそうで不安だったけれど、こんな終わり方を望んだわけではなかった。
 昨夜のうちに読ませてもらった、源之助の文──遺書に書かれていたことを、夜光はぼんやりと思い返す。
 悲しまないで下さい、と、遺書の中で、源之助は繰り返し訴えていた。
 書かれていたのは、葵を立てて国に帰る、という目的を失ったことで、年老いた源之助は、そこで生きる甲斐を無くしてしまったのだということ。あの日に死んでいった者達のことが頭から離れず、もう生きる必要もないのなら、皆に会いに行くことにしたのだということ。
 ──どうか悲しまないで下さい。まだ先のある若と違って、この老いぼれは、もうさほど長くはありませぬ。もう充分に生きましたから、ここで命を終わらせることにも悔いはありませぬ。
 ──爺の死は、若のせいではありません。もう誰一人自分のせいで死んでほしくないと仰った、そこに爺を含めてはなりません。爺は例外でございます。爺は己の意思で死ぬのです。
 そんなふうに綴られていた源之助の言葉を思い返し、夜光は遣り切れなさに唇を噛んだ。
 悲しむな、など、葵に出来ると思っているのですか。自分のせいではないと、葵が思うことが出来ると思っているのですか。
 源之助を殺してしまった。かけがえのない者を、また死なせてしまった。そう思ったからこそ、昨夜葵は、咄嗟に短刀を手に取った。この上はもう生きてはいかれないと思ったからこそ、一瞬夜光のことも忘れて、自らの喉に刃を突き立てようとした。
 ──葵はそういうひとだと、なぜ貴方様が分かって下さらなかったのですか。
 考えているうちに、どうしても涙が滲んできて、夜光はきつく目を瞑った。
 生きていてほしかった。過去に囚われた者と、未来に歩き出した者、その道はもう交わらないのかもしれないけれど。何も、死ぬことはないではないか。生きて、蓬莱における葵の帰る場所でいてほしかった。爺やとして葵と一緒に笑っているところを、葵を子供のように叱りつけているところを、まだ見ていたかった。
「──夜光」
 そのとき、傍らに立っていた葵に呼びかけられた。はい、と夜光は、なんとか顔を上げた。
「匕首を。おまえに預けてある匕首を、貸してくれないか」
 横たわる源之助を見下ろしながら、淡々と言った葵に、夜光はぎくりとした。夜光の懐に常に差し込まれているそれは、葵が唯一「過去の形見」としているもの……元々は、最期のときに自らの命を絶つためのものとして、葵が持っていたものだった。
 ──この匕首で、葵は何をしようというのだろう。まさか。
 その由来ゆえに尚更、夜光が思わずためらっていると、それに気付いた葵が苦笑した。力は無かったが、それは昨夜から初めて見た、葵の笑い顔だった。
「そうじゃない。自分に突き立てたりはしない。安心してくれ」
「……分かりました」
 それならと、夜光はまだ少し不安を覚えながらも、懐から匕首を取り出す。黒い刀袋ごと渡すと、葵はためらわず紐をほどき、匕首を取り出した。
 鞘から抜かれた刀身が蒼穹を映し、鈍く木漏れ日を反射する。葵は匕首を、頸の高さまで持ち上げた。見ていた夜光は背筋がひやりとしたが、葵は空いた片手で自らの結い上げた髪を束にして握ると、そこに匕首の刃を押し当てた。
 すっと刃を引くと、簡単に髪が切れた。短くなった朱い髪が、ぱらりと葵の肩に広がり落ちて春風に靡く。
 切り落とした髪の束を、葵は源之助の胸の上に置いた。
「一緒には逝ってやれない。……すまない」
 呟くように葵は言うと、夜光の手に匕首を返した。
 そしてあとはもうためらうこともなく、葵は道具を取ると、眠る源之助に土を被せ始めた。それは殊更、何も考えるまいとしているようにも見えた。
 夜光は匕首を元通り懐にしまい、まだ眦に残っていた涙を拭った。夜光よりもずっとつらいだろう葵が、こうして手を動かしているのに、いつまでも泣いているわけにはいかなかった。
 夜光も手を貸し、無言のうちに作業は続けられた。じきに源之助の姿は、完全に土の下に見えなくなった。
 きれいに土をならしてから、せめて墓石の代わりにと、一抱えほどの石を置く。水を入れた椀と地酒の入った土瓶を、それぞれ墓の前に供えた。
 ひらりはらりと、墓の上にも桜の花びらが落ちる。
 ──これでもう、源之助は本当にいなくなってしまった。もう姿を見ることも出来ないのだ。
 不思議なような切ないような思いで墓を見下ろしていると、夜光はふいに、後ろに立っていた葵に抱きすくめられた。
「葵……?」
「……すまない。少しだけ、最後に泣いてもいいか」
 懸命に嗚咽を飲み込むような声だった。夜光はまた涙が滲みかけたのをこらえ、葵を見上げると微笑んだ。
「はい」
 夜光は葵の頬に手をふれ、髪を撫でる。葵は夜光を抱き締めながら、堪えきれないように、奥歯を噛み締めるようにして嗚咽を漏らした。
 ──昨夜の葵は、夜光を抱き締めようとしなかった。ただひたすら、此岸に繋ぎ止めるように、夜光が葵を抱き締めていた。
 もしかしたら、と夜光は思う。もしかしたら、昨夜死んでしまっていたほうが、葵は楽だったのかもしれない。葵に生きてほしいと思うのは、葵がいなければ生きられない夜光の、ただの我が儘なのかもしれない。
 だけれど夜光には、どうしても葵と離れては生きられない。
「……葵。聞いてください」
 ──もし。葵がどうしても、堪え難く苦しいのなら。
 夜光は葵を見上げ、涙に濡れたその両頬を手で包んだ。覗き込んだ葵の青みがかった瞳は、さんざん泣き腫らしていてさえ、透明で美しかった。
「私は、どこまでもおまえさまと一緒です。もしどうしても、もうつらいと仰るのであれば……私は、どこまでもお供しますから」
 夜光の言わんとすることを、葵は察したようだった。その目が大きく見開かれ、夜光を凝視する。
 ぎゅっと目を閉じると、葵は振り払うように頭を振った。大きく息を吐き、次に瞼を開いたときには、葵の瞳は真っ直ぐに、強く夜光を見返した。
「馬鹿を言うな。そんなことをおまえにさせるくらいなら、それこそ俺に価値はない」
 ああ、葵だ。その声音に、安堵とも切なさとも知れぬものが、夜光の胸に沁みわたった。
 何が正しいのかは分からない。ときどき、こういう葵の強さが痛々しくなる。けれど、こんな葵だから、夜光は葵が愛しいのだ。自分のためよりも、ひとのためならばどこまでも強く優しくあれる葵が、切なく愛しい。
「──はい」
 夜光はあふれる想いを言葉にできないまま、そのかわりに想いのすべてを込めるように微笑んで、葵を抱き締めた。
 夜光も葵も、互いが生きるかすがいのように、ひとりでは生きられない。だけれど、ふたりならば生きられる。
 ならばふたりで、生きてゆこう。それが罪であろうと、正しさが分からなくなろうと。ふたりならば、すべてを呑んで歩いてゆける。


 墓を建てるまでにかなりの時間と労力を費やしたことで、二人はもう一晩だけ、源之助の家に宿を借りることにした。
 夜光と葵は、紙燭の明かりにひっそりと身を寄せ合い、ぽつりぽつりと、たわいもない話をした。それらの話に混ざって、葵は少しずつ、今までは話さなかった源之助や昔のことを、夜光に語った。
 身も心も疲れ切っているのだろう葵は、夜光に凭れたまま、気が付くと眠りに落ちていた。夜光もそんな葵をそっと支え、抱き寄せながら、瞼を閉じた。
 しっとりとした春の夜は更けてゆく。庭に見える白い夜桜が、雨のように、涙のように、はらはらと花びらを散らしていた。


 翌日の空もきれいに晴れていた。
 軽い朝食をとると、夜光と葵は、それぞれにここを発つ身支度を始めた。
 夜光の被衣は、源之助の血で汚れてしまっていたが、水で流すと嘘のように血糊が流れ落ちた。もともと人の世のものではなく、終の涯の長から授かった宝物ほうもつである被衣は、あらゆる穢れを受け付けない。見た目としても心情の上でも、夜光はこのときほど、それを有り難いと思ったことは無かった。
 真っ白い被衣を纏い、身支度を整えた夜光は、最後に庭へと足を向けた。
 桜の下にあるささやかな墓石の前に発つと、その前に屈む。その場所には、さまざまな鳥達の囀りと共に、穏やかな春陽が差していた。
 夜光はしばらく墓を見つめた後、目を伏せて手を合わせた。
 またこの場所に来ることがあるかは分からない。住む者がいなくなれば、家もすぐに荒れるだろう。そもそも天下が乱れて久しい世の中、この里そのものも、いつまで平穏無事の中にいることか分からない。
「……人間なんて、私は嫌いです」
 ぽつり、とつぶやいた。
 人間なんて、自分勝手な道理で生きるばかりで。死ぬときまで身勝手で。……だけれど。
「貴方とは、もう少し話してみたかった気がする……」
 もっと時間があれば、葵を間に挟んで、親しくなれたのかもしれない。夜光が間に立てれば、葵と源之助の意識の違いを仲介出来たのかもしれない。何も死ぬことはないのだと、源之助の心をやわらげることも出来たのかもしれない。
 今となっては、何もかもが詮無きことだけれど。
「夜光」
 そこに、葵の声が聞こえた。声の方を見ると、身支度を調えた葵が、戸口の方から庭に回ってくるところだった。
「はい。ここにおります、葵」
 夜光は立ち上がる。足を運んできた葵は、墓石の前に立ち止まった。
 葵は、墓に手を合わせることはしなかった。しばらくじっと墓を見つめ、最後に小さく、ほんの微かに唇を動かして、微笑みに似た表情をした。
「達者でな。源爺」
 ひどく優しい声で、囁くように葵は言った。
 葵はきびすを返して歩き出す。それきり、振り返らなかった。
 夜光もそれにならい、歩き始めた。雪のように白い被衣が、ふわりと春風をはらんだ。
 桜の枝から、葵の上にも、夜光の上にも、白い花びらが雪のように舞い降りる。


 白く光りながら舞う花びらは、無人になった庭の中、ちいさな墓石の上にも、音もなく降り積もった。それはさながら、花衣を纏うようだった。


(了)

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