花衣に眠る (七)

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 翌日も、よく晴れていた。高く透ける青空に、里のほうぼうで咲いている桜が淡くきらめき、軽やかに花びらが舞っている。どこかの枝で軽妙に鳴き交わす鶯の声が美しかった。
 源之助の様子は、先日までとまったく変わらなかった。葵もまた特別何も言おうとせず、二人がそんなふうだから、夜光も先日までと同じように振る舞った。きっと夜光は、二人について、何も知らないふりをしている方が良いのだろう。
 夜光と源之助で竈のある土間に立ち、朝食を用意する。先日と同じように、三人でささやかな朝餉を囲み、庭の桜を眺めながら茶を飲んだ。
 さて今日も、昨日の作業の続きをするか、となった頃。源之助が、二人に呼びかけた。
「若、夜光様。すみませんが、今日はひとつ、使いを頼まれては下さいませんか」
「使い?」
 問い返した葵に、源之助は、懐から折りたたんだ文らしきものを取り出した。
「はい。市場近くの店に、この注文書を届けてほしいのです。本当は私が行けば良いのですが、近頃どうも、長い距離を歩くと膝が痛んできてしまって」
 心苦しそうに言う源之助に、葵は「分かった」と二つ返事で文を受け取った。夜光にも、別段否やがあるわけもなかった。
 届け先の場所を記した薄墨紙を葵に渡し、源之助はよく晴れた空を見上げながら言った。
「何でしたら、使いのついでに、散歩がてらゆっくり歩いて来て下さい。今がこの里の、最も美しい頃合いですから」
 微風に乗って舞う白い花びらが、心なしか先日よりも多い。蓬莱において、桜花の寿命は短い。咲き始めたかと思うとすぐに満開になり、かと思うと、あっという間に散ってしまう。
「そうだな。せっかくだから、そうさせてもらおうか」
 葵も美しい桜に心を攫われたのか、花びらの舞う空を見上げながら頷いた。
 夜光は白い被衣を纏い、葵は「せっかくの桜が見づらくなる」といって、今日は編笠を被らずにそのまま外に出た。
「昼飯までには帰る。源之助も、あまり働かずにゆっくりしていろ」
 冠木門の下で、葵は源之助を振り返る。源之助は笑って、深々と二人に頭を下げた。
「いってらっしゃいませ。よろしくお願いします」
「いって参ります」
 夜光も被衣の下から、源之助に軽くお辞儀をする。桜の舞う中、源之助は、互いの姿が見えなくなるまで、門の下から見送っていてくれた。


 風がまだ少し冷たいが、陽差しはあたたかいという丁度快い陽気の中、夜光と葵は並んでゆっくりと里を歩いた。
 葵の夕陽色の髪は、そのまま晒されているとさすがに人目を引く。しかし葵が堂々と構えていることと、春の陽気がことのほかうららかなことで、人々は一瞬ぎょっとしつつも、それ以上のことは無かった。
 市場に入ると、あたりじゅう賑やかになり、葵よりもよほどかぶいた格好の大道芸人達もいたから、それほど目立つこともなくなった。
 のんびり市場の賑わいと桜を楽しみながら、渡された地図を頼りに、届け先の店を探した。慣れない土地のせいもあり、ふたりはだいぶあちらこちらを歩いたが、なかなか目指す店を探し出せなかった。途中でそのあたりの者に地図を見せ、場所を訊ねてみるが、どうにも要領を得ない。
 店を探し始めてかなり経った頃、葵が首をひねった。
「このあたりのはずなんだがなあ。どこにあるんだろう」
「店というからには、そんなに分かりにくい場所にあるとは思えないのですが……お店の名前を頼りに探した方が早いかもしれませんね」
 店の位置を黒く塗りつぶしてある地図を見ながら、夜光は言った。
 行き先の名は口頭で聞かされただけだったので、もしかしたら聞き間違いをしたのかもしれない。渡された注文書を取り出して、懐紙で包まれた表と裏を返してみたが、外から見て分かるところには何も書かれてはいなかった。
「仕方がないな。中を少しあらためさせてもらおう」
 注文書とはいえ、閉じられた文を開くのは気が咎めたが、やむをえない。中になら書かれているであろう宛名を確認するため、懐紙を除いて、折りたたまれた文書を開いてみる。だがそこには、何も書かれていなかった。
「……え?」
 注文書だと言われたそれは、文字通り、ただの白紙だった。表と裏を返して確認してみるが、何も書かれていない。
「これは──」
 いったいどういうことだろう。まさか源之助が中身を間違えたのだろうか。
 いや。目的地のない地図や、口頭で店の名を伝えられたことが、そもそもおかしくはないか。源之助ほどしっかりした者なら、まず口頭にはしないはずだ。何よりもまず、あの源之助が、「主」である葵に使いを頼むこと自体が、よく考えれば不自然ではないか……?
 一瞬茫然と佇んでいた葵が、弾かれたように身を翻し、走り始めた。はっとして、夜光も後に続いた。
 走りながら、ひどく悪い予感がした。
 これは、意図的だ。源之助が二人を家から外に出すために、あえて仕組んだのだ。でも、何のために?
 翔ぶように駆けてゆく葵に、夜光は追いつけなかった。源之助の家までは、かなりの距離がある。先をゆく葵の朱髪を見ながら、夜光は息を切らして、胸騒ぎに背を突かれるように駆け続けた。
 ──ああ、どうか。どうか、何事もありませんように。杞憂でありますように。どうかもうこれ以上……神仏というものが在るのなら、どうか。
 幾度も角を折れ、走り続けるうちに、やっと家の冠木門が見えてきた。
「源之助!!」
 叫ぶようにその名を呼びながら、葵が家の中に飛び込んでいく。夜光もそう遅れず、後に続いた。
 ──血の臭い。
 家の表戸を開き、一歩を踏み込んだだけで、漂うそれを嗅いだ。不自然なほど静まり返った家の中を、葵が先に立って、奥へと踏み込んでゆく。
 奥座敷へと続く板戸を大きく引いたところで、葵が棒を飲んだように立ち竦んだ。
 追って駆け付けた夜光もまた、そこに広がっていた光景に立ち尽くした。
 埃ひとつなく磨かれた黒い板間の奥で、座した白装束の源之助が、まるで腹を庇うような格好で前のめりに伏していた。源之助を中心に、あたり一面、板間の黒の中でさえ際立つ赤い色の水たまりが広がっている。
 まだ冷えてすらいないそこに、縁側から舞い込んだ桜の花びらが、まるで小舟のように浮いていた。
「……源之助様……」
 あまりの光景に、夜光は身動きできなかった。息があるとは到底思えない量の出血だった。そのおびただしい血の海の中へ、ふらりと葵が踏み出した。
 衣が汚れることも厭わず、葵は真っ直ぐに源之助のもとへ向かった。びしゃり、と血が跳ね、広がる真っ赤な水面が揺れる。
 葵が抱えるように引き起こした源之助の身体が、ぐにゃりと力無く傾いた。その手から、刃に紙を巻いた短刀が、血溜まりの中に転がり落ちた。源之助の腹には大きく割られた傷があり、頸にも深く掻き斬られた傷口があった。
 既に源之助に息が無いことは、傍目にも明らかだった。その裂かれた部分からは、未だに湯気さえ立っている。おそらく源之助は、二人を送り出した後、準備と身支度をととのえて腹を切った。そして二人が帰る前に、速やかに確実に命を絶つためだろう、喉を突いたのだ。
 葵は血塗れの源之助を抱えたまま、ひどく茫然としているように見えた。のろのろとその目が、源之助の傍らに据えられていた三方を辿る。真っ白い懐紙で包まれた文らしきものが、そこには丁寧に置かれていた。
 血塗れの手で葵がそれを取り、震える手で開いた。瞬きすら忘れてしまったような目で、書き付けられていた文字を辿る。
 その手が震えながら、ぐしゃりと広げたままの文を握りしめた。葵は文に顔を埋めるようにして、ぐう、とくぐもった声を上げた。喉の押し潰されるような、呻きとも唸りともつかない、声にならない声をあげながら、葵は源之助の傍らにうずくまった。
「葵……」
 あまりのことに、夜光は動けなかった。何故こんなことになったのだろう。何故、こんなことになってしまったのだろう。そんな詮無き無意味な問いが、ぐるぐると頭の中を回った。
 うずくまっていた葵が、そのとき顔を上げた。その手もその顔もその衣も、既に源之助の血で汚れている。見開かれたままの葵の目が、血溜まりの中に転がっていた、源之助の短刀に向いた。
 はっ、と、夜光は息を飲んだ。葵は短刀以外は何も目に入っていないように、血溜まりの中のそれに手を伸ばす。葵の手がそれを掴み、切っ先を自身の喉元に向けようとするのと、夜光がその場に飛び出すのは、ほぼ同時だった。
「だめ……!」
 悲鳴そのものの声をあげながら、夜光は葵に取りついた。短刀を握った葵の腕にしがみつき、全身の力尽くで、切っ先を引き剥がすようにする。夜光の身もまたぬるい血で汚れたが、そんなことに構っていられなかった。
「いけません。駄目です、葵。どうか……!」
 必死で葵に取りつき、叫ぶように訴えて、その手から短刀を引き剥がしにかかる。思いのほか簡単に、短刀は葵の手を離れた。短刀はびちゃりと重く湿った音を立てながら血溜まりの中に落ち、跳ねて、離れた場所へと転がった。  
「葵、なりません。どうか……どうか、葵……」
 もはや夜光もまともな言葉にならず、ただ葵の身体を強く抱き締めていた。いつの間にか、夜光の頬に涙があふれていた。声にならない声で、ただ「なりません」と繰り返していた。
 抱き締めた葵の身体はあたたかく、鼓動も聞こえる。けれど少しでも夜光が力をゆるめれば、たちどころにそれも消えてしまいそうで、他に何も考えられないほど恐ろしくて、葵から離れることができなかった。
 そのうち夜光の声もかすれて、啜り泣く声だけになった。
 夜光にしがみつくように抱き締められたまま、茫然と座り込んでいた葵の瞳に、やがてぼんやりと涙が浮かんだ。ゆっくりと瞬きをすると、大粒の涙がぼろりと頬に零れた。
 葵は大きく息を吸い、それと共に、決壊したようにその頬に滂沱と涙があふれた。身を引きつらせ、震えながら嗚咽するそのたびに、ばたばたと涙の粒が落ちる。
 夜光はただ、そんな葵を抱き締めている他に、何も出来なかった。ただ身を寄せて、その髪を、背を、繰り返し撫でながら、決して離れずにいること以外に。
 長い長い時間をかけて、ようやく葵の震えと嗚咽がおさまるまで。夜光はただずっと、祈るように葵を抱き締めていた。

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