「坊や。そこの坊や」
秋晴れの空の下。見渡す限りの焼け野原。
道なきそこを、動かない片足を引きずりながらよたよたと歩いていた弥一は、ふいに背後から聞こえてきた声に立ち止まった。
あたり一面には、焼けた田畑と森と原っぱ。それに集落を成していたものの残骸が広がっている。所々でまだ煙がくすぶっている中、ほうぼうに人や獣の屍が転がり、そこに群がる鴉たちも見えた。
振り返った弥一は、皮肉なほどに澄んだ空と同じくらいこの場にふさわしくない「もの」を、そこに見つけた。
──白い。
ふんわりとした羽衣──その「もの」が頭からかぶっているそれを、知識があれば「被衣」というのだと分かっただろう。しかし生憎、貧しい生まれ育ちの幼い弥一には、それほどの見聞は無い。
ただ、漠然と思った。白くて綺麗で、この世のものではないみたいだ。まるで伝え聞く絵巻物から抜け出してきた……そう、まるで「天女さま」というやつのようだ、と。
白い被衣をかぶった「それ」は、弥一から五歩ぶんほど離れたところに立って、こちらを見つめていた。
口を開けてぽかんとしていると、白いそれが近付いてきた。いろいろなものが焼けたり腐敗してゆくひどい臭気の中に、白い被衣が、まるで清らかな羽根のように靡いていた。
弥一の前に、白いそれは腰を屈める。被衣の下から覗き込んできた瞳に、弥一はいっそう目を丸くした。
およそ見たことのない瞳の色。似た色をあげるなら、とびきり鮮やかな菫や菖蒲の色彩だろうか。
到底同じ人間とは思えない色あいに、不気味さや恐怖を覚えるよりも、弥一は見とれてしまった。
──なんてきれい。
その肌も髪の色も、降りたての雪みたいに白い。仄かに輝いているようにさえ見える雪色の髪は、肩にかかる程度で切り揃えられている。透明な紫の瞳は長い睫毛に縁取られていて、その白い面差しも、今まで見た何者よりも綺麗だった。
それはそうだ。だって天から降りてきたものなんだろうから。こんなに綺麗なものが、この世のもののわけがない。
「坊や。こんなところでどうしたの?」
白いひとが口をひらいた。高くも低くもない、でも女性というには少し低いかな、というくらいの、まろい声音だった。
声をかけられたことで、長いことぽかんとしていた弥一は、我に返って思わず跳び上がった。
「うわっ」
不自由な片足で跳び上がったものだから、もんどりうって尻餅をつく。
けれどまだ、目を皿のようにしてそのひとを見ることをやめられない。
そこで弥一は、白いそのひとの後ろにも、もう一人誰かがいるのに気付いた。
多少くたびれてはいるが丈夫そうな袴を着込んだ、見映えのする若い男。編笠の下に見える顔立ちは、白いひとほどではないけれど、こちらもかなり整っていた。
男の腰には、布でぐるぐる巻きにされた長いものが見える。「打刀」と「太刀」の違いは弥一には分からなかったが、まあそういう類いのものだろう、ということだけは分かった。
袴にカタナということは、この若い男は「武士」とか「侍」というやつだろうか。
ぎゅっと、身の芯が縮こまる思いがした。近頃はカタナを持った連中は、みんなひどく乱暴で血腥いから嫌いだ。
だけれどこの若い男からは、そういった嫌な空気はまったく感じられなかった。らしくない、という意味では、少し不思議な男だった。
奇妙な二人をまじまじと見返しながら、ずいぶん長いことかかって、やっと弥一は言葉を発した。
「…………だれ?」
「おれの村、このへんにあったんだ」
近くにあった手頃な石に腰掛けた少年は、あっけらかんとそう言った。
「となりの村が、戦のせいで焼けたって聞いてさ。こっちもやばいぞってなって。みんなで逃げたんだよ。ほんとになんにもなくなっちまったなぁ」
あたりを見渡しながら話す少年の前に、夜光は屈んでいた。
痩せた少年の歳の頃は、十歳よりもいくらか手前といったところだろうか。つぎはぎだらけの襤褸の着物は、泥や血にまみれて、元の色が分からないほど汚れている。小さな素足も、やはり泥だらけ傷だらけだった。
少年が引きずるように歩いていたその左足を看てやりながら、夜光は眉をひそめた。
「それは大変でしたね。……さぞ痛むでしょう」
膝から脛にかけてを無惨に抉られたその傷は、既に出血は止まっていた。脚全体の血色が悪く、ほぼ青黒い。抉れた肉の下には骨が見えている。そればかりか、白い米粒のようなものが、傷に潜り込むように幾つも蠢いているのが見えた。
隣で様子を見ている葵は、自分が痛そうに顔をしかめていた。
「いんや。痛くねぇ」
我慢をしているふうもなく、本当に痛みなどないように、少年はけろりと答えた。
衣に血とも泥ともつかぬ汚れがべったりと染みついた腹のあたりを、少年は節の目立つ小さな手で撫でた。
「こっちのおなかも、最初は痛かったけどさ。でもなんかいつのまにか、もう全然痛くねぇんだ」
「そこにも怪我を?」
「ううん。痛くねぇし、だいじょうぶ」
「そうですか。ひとまず、洗いますよ」
夜光は綺麗な白い指で、少年の足の傷に蠢いていた白いものたちを躊躇無く掻き出し、竹筒に満たした清水で傷口を洗う。手早く十薬を揉んで柏の葉につけ、端切れで覆って傷口に巻いた。
少年は頭からも血を流していた。夜光は少年の頬を汚している血と泥を拭いてやり、頭の傷にも布を巻いてやってから、あらためて少年と目線を合わせた。
「坊やは、今までどこに?」
少年は空を見上げ、「えーっと」と考え込んだ。
「どこだっけなあ。何日か前の昼に、村のみんなで逃げたんだ。でも、妹とはぐれちゃってさ。とうちゃんとかあちゃんが捜しに戻るっていって。他にも大人が何人か、戻るっていって、村に帰ってったんだ」
「はい」
「おれも心配でさ。だって、暗くなるまで待ってたけど、誰も戻ってこないんだもん。腹も減ってくるしさ。それで、おれも村に帰ったの」
はい、と頷きながら、夜光は少年の言葉を聞く。少年は青空から夜光に目を移して、むう、と難しそうな顔をし、折れそうに細い首を傾げた。
「そのへんから、よくわかんねぇんだよなぁ。夜なのに、村の方がやたら明るかったんだ。あ、燃えてんだ、って分かった。明るいなら、みんなのことも見付けやすいだろ? 呼びながらずっと探し歩いてたんだけど、全然会えなくてさ……気が付いたら、まわりみんな焼けてて。そん中を、ひとりで歩いてたの」
「そうですか……」
少年の言葉を聞いていた夜光が、僅かに吐息をこぼすように呟いた。白くたおやかな手を伸ばし、少年の痩せて汚れた小さな手にふれる。
急にふれられたせいか、少年は少し驚いた顔をして夜光を見た。夜光は少年を安心させるように、白い指で少年の手を柔らかく包んだ。
「ではこの先は、私達と一緒にいきましょうか」
「いいの? あ、でもおれ、かあちゃんたち捜さないといけねぇんだよ」
「私達も一緒に捜しますよ。見付かるまで一緒にいます。そう長くはかからないと思いますから」
「そうなの? なんでわかるんだ?」
不思議そうにした少年に、夜光は首を傾け、小さく笑った。
「さあ。なんででしょうか。秘密です」
「えー。なにそれ、教えてよー」
少年は不満そうに頬を膨らませていたが、そのうちひとりで納得したように、「あっ、そっかぁ」と頷いた。
「あんたさ、人間じゃないんだろ。雪みたいに真っ白だし、すごいキレイだもん。あんたみたいなひと、見たことねぇ。目の色も、おれらとはぜんぜん違うもんなあ」
少年は夜光を真っ直ぐに見て、にかっと笑った。
「あんたが言うなら、きっとみんなにすぐ会えるんだな。よかったぁ。実はさ、おれ、すごい不安だったんだ。ありがとぉな」
夜光と手をつないで、少年は元気に歩き出した。左足を引きずってはいるが、痛みは本当に感じていないらしい。
痩せた小さな少年と、その手と手をつないでいる夜光の後ろについて、葵は歩いていた。
こんな無惨な戦の跡──集落とその周辺までもが焼けた中で、ひとりぽつんと子供が彷徨っているのを見付けたら、放っておけるものではない。怪我をしているなら手当てをして、せめて身の安全を確保できるところまでは連れて行ってやりたい。葵もそう思うのだから、夜光があの少年を助けたことに否やは無かった。
とはいえ、いつになく積極的な様子の夜光が、正直なところ意外ではあった。なにしろ夜光は「大の人間嫌い」で、相手が子供であろうと、基本的にそれは変わらないからだ。
しかもどうやら、少年の反応からして、夜光は自身の「人間」というには異彩な姿を晒している。
夜光の纏っている白い被衣は、正しくは「月天の羽衣」と呼ばれる異界の宝物で、見るものの目を眩ませる不思議な力があった。あの被衣を纏っている限り、夜光がそうしようと思わなければ、人はその異彩に気付かないはずなのだが。
そんなことに考え巡らせながら歩いていたが、手をつないで歩いている夜光と少年を見ているうちに、葵はふと笑みがこぼれた。
まあ、そう難しく考えなくても良いのかもしれない。
夜光はむやみに情け深いわけではないが、弱っているものや傷ついたものには優しい。
人間嫌いとはいえ、傷ついた罪の無い子供を躊躇無く保護するくらいには、夜光の考えや気持ちもやわらいできた。そういうことかもしれない。
それならそれで悪い傾向ではないな、と思いながら歩いていると、ふいに少年が葵を振り返った。
「なあ、にいちゃん」
「うん?」
少年の黒い瞳は、どこか警戒するように、伺うように葵を見上げている。その手はしっかりと、夜光の手を握っていた。
「にいちゃんは、おさむらいってやつなの? そんな格好してるしさ。それにそれ、カタナだろ?」
葵が腰に佩いた、全体を布で巻いてある太刀を、少年は怯えたように見ていた。この少年の村は戦に巻き込まれてこんな惨状になったのだろうことを思うと、明らかに農民ではない葵を警戒するのはもっともだった。
葵は少年を見返し、笑って首を振った。
「いや、俺はそんなたいそうなものじゃないよ。この刀も、人を斬ることはできない。飾りみたいなものだ」
「ふぅん……? じゃあ、にいちゃんは見かけ倒しってこと?」
無遠慮な一言に、横で聞いていた夜光が小さく吹き出した。葵も目をぱちくりさせ、思わず声を立てて笑った。
「そうだなあ。たいがい見かけ倒しだな、俺は」
「なあんだ。じゃあぜんぜん恐くないんだな、にいちゃんは。よかったぁ」
葵を見るときはどこか強張っていた少年の頬が、安心したのかやっと緩んだ。
少年が骨張った細い手を伸ばして、葵の手を握った。怪我で多くの血が流れてしまったせいだろうか、その小さな手は、一瞬ぎょっとするほど冷たかった。
夜光と葵と、それぞれと手をつなぎ、ふたりに挟まれるようにして少年は歩き始めた。そうしながら、少年は青空を見上げた。
「とうちゃんとかあちゃん、今頃どこでどうしてるんだろ。おれに内緒で、うまいもん食ったりしてないだろうなあ。とせも一緒にいるのかな。あ、とせってのは妹なんだ。大丈夫かな。あいつ泣き虫だから、心配なんだよなぁ」
「大丈夫ですよ。みんな一緒にいます」
優しく答えた夜光に、そっかぁ、と少年は頷く。そして、子供らしく口を尖らせた。
「会ったら文句言ってやる。おれのこと置いていくなよって」
手を繋いだまま、三人はその先もしばらく焼け跡の中を歩いていた。
そのうち、次第に少年の足元がおぼつかなくなってきた。目許をこすりながら、ふらふらと今にも倒れてしまいそうに歩いている。
「坊や、大丈夫か?」
覗き込みながら葵が訊ねると、少年は頷いた。
「……ん……ごめん。なんか、すごく眠いや……なんだろ」
そう言ううちにも、少年の瞼が下がり、かくりと膝が折れた。小さなその身体を、夜光が袖の中に抱きとめるように支えた。
「少し休憩しましょうか。あの木の下なら、まだ休めそうです」
「そうだな。連れていくよ」
夜光の腕から、葵は少年の身体を引き取った。そうしてみると、驚くほど、まるで枯れ枝を集めたもののように、少年の身体は固く軽かった。そして何より……。
──程度がすぎないか。
腕の中に抱き上げた少年を、葵はまじまじと見下ろした。軽いのは分かる。骨張って固く感じるのだろうとも思う。だがそれにしても、これは……。
少年の身にふれた腕に、葵はもう少し力をこめた。少年と手をつないだときに感じた違和感を思い出す。あれも、血が流れたことと、もう暑いとは言えない秋の空気のせいだろうか。だが、それにしても。
「──行こう」
困惑しながらも、口に出しては何も言わず、葵はその場から歩き出した。
夜光もそれにならい、何を言うこともなく後に続いた。
焼け跡に残っていた一本の木の木陰に、彼らは移動した。
少年と荷を下ろして、葵は編笠を外す。夜光が膝枕をしてやると、少年は僅かに瞼を揺らして目を開いた。が、またすぐに閉じて、吸い込まれるように眠りに落ちていった。
小さな身体をさらに小さく丸め、自分で自分を抱え込むような姿勢で寝入っているその顔色は、日陰になっているせいではなく、ひどくすぐれないように見えた。
夜光は無言で、ただ少年の頭を撫でている。その白い顔は柔らかい無表情で、葵にも何を考えているのかよく分からなかった。
葵も傍らに腰を下ろし、ぐったりと眠り込んで微動だにしない少年の顔を見下ろした。
その水分のない、かさついて荒れた頬に手を伸ばしてみる。葵がふれても、少年の固く閉ざされた瞼はぴくりとも動かなかった。
葵は少年の髪を撫で、その頬から首筋に指を辿らせた。そこは少年の他の部分と同じく、驚くほどひんやりと冷たかった。しばらく、そこに指を置いておく。──やはり気のせいとは思えない。
肌に返る感触を確かめたものの、葵は口にするべき言葉に迷い、ためらった。
「……夜光。俺の考えすぎなら良いんだが」
まさか。そんなことがあるのだろうか。
疑問と共に、そんなことがあってほしくない、という思いが湧き上がる。口の中が妙に乾き、胸と喉を何かにぎゅうっと締め付けられるようだった。
「この子は、……この子は、もしかしたら……」
「ええ。おまえさまの考えている通りかと存じます」
表情も声音も変えず、夜光が答えた。葵は思わず、縋るように夜光を見た。
「だ、だが。こんなことが本当に起こり得るのか? いったいどうしてこんな……」
言いたいことと思考がまとまらないまま、矢継ぎ早に続けた葵に、夜光が静かに瞳を動かした。白い被衣の下にある紫の瞳は、山奥の泉のように静謐だった。
「私にも道理は分かりません。でも、このように天の氣が乱れ、多くの土地が腐敗と穢れに蝕まれていては、現世の理が綻んでも無理からぬことなのかもしれません」
自らの膝を枕に眠る幼い少年に、夜光は再び視線を戻した。その白い指先は、やわらかく少年の髪を撫で続けていた。
「様子からして、今日の夕刻。保って、それまででしょう」
「保って……保つ、とは、何がだ」
「この子の、この姿が」
夜光の言葉に、葵は無意識に、自身の胸元をぎゅっとつかんでいた。夜光の言葉の意味が、完全に理解できたとはいえない。だが、ひどく哀しく、そして惨いことが起きようとしていることだけは分かった。
夜光はこの先に起きることが見えているように、紫の瞳を西の空に向けた。
「そこを越えさせてはいけません。夕暮れ刻は、ただでさえ現世と幽世の境界があやうくなる。ましてこのような忌み地であれば、確実に此岸と彼岸のあわいが揺らぎます。この状態で夕暮れ刻を越えてしまえば、この子供は本格的に『この世にあってはならぬもの』になってしまいます」
「そんな……」
あまりにもまだ幼く罪の無い、全身傷だらけの少年の眠る姿を見て、葵は呻いた。
葵の半分もまだ生きていないのだろうに。いなくなった家族たちを案じ、不安でも笑うことのできる、優しく良い子なのに。
「どうにか、してやれないのか」
葵の言葉に、夜光が首を振る。その仕種に、肩口で切り揃えられた髪がやわらかく揺れた。
「この子供の身は、既に氣枯れています。残念ながら、私にはどうすることもできません。葵、おまえさまにも。出来ることがあるとすれば、ただひとつだけ」
秋の陽は、もう長くはない。西の空を見つめる夜光の白い姿は、うっすらと雲が黄昏色に変わりつつある光を受けながら、全体に淡く縁取られ光って見えた。それはこの、世の終わりのような焼け跡の中にあって、まるで天から降りてきた慈悲深きもののようにも見えた。
言葉を継げずにいる葵を見返り、夜光は淡々と言った。
「せめて、私達が見付けることが出来て良かった。そう思いましょう。葵」