朔の章 第三のパンドラ(2)

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 飼い始めたサクの外見を、アリサは自分好みに綺麗に整えることを始めた。
 右の耳朶に一つだけ穴を開け、血のように赤いガーネットの小さなピアスをつけさせた。ボディピアスやタトゥーといったものは、サクには施さなかった。他の「飼い犬」達の中にはそれらをしている者も多かったので、それは単純にアリサの好みと判断なのだろう。
 あまりあからさまに手を加えるより、あくまで素のままである魅せ方が、アリサがサクに選んだ方法のようだった。少し伸びてきた黒髪を、アリサは整える程度にさせ、そのまま伸ばさせた。高価な化粧水や乳液を惜しみなく使わせ、地肌からなめらかさと艶を増すように手入れをさせた。
 あとはアリサ好みの外見になるような衣服を与えた。いわゆるごく当たり前のストリートファッションだったが、その一着一着が上質なブランド物だった。
 胸元が少し大きめに開いていたり、布地が裂けていたりと、どことなく扇情的で、しかし決して下品ではない。アリサはサクに、白やグレーや黒というモノクロの色彩ばかりを好んで与えた。そしてビルの中にあるジムで、身体は鍛え続けるようにと言いつけた。
 外に出ることがなくなったサクの肌は、夏だというのに白さを増し始め、それもまたアリサの好みであるようだった。


 アリサは夜ごと、ときには昼間からサクをベッドに誘い、自分の好みの動きと、女がどうすれば悦ぶのかという手練手管を徹底して教え込んだ。
 アリサは時折気まぐれのようにサクを優しく扱ったが、しかしそのほとんどはサディスティックだった。
 普通に抱き合うこともあったが、たいていにおいて、サクは徹底的に責め抜かれ、もう嫌だ、許してほしいと泣き叫ぶことになった。だがそんな反応がいっそうアリサを昂ぶらせるようで、それこそ何度でも気を失うまで嬲られ続けるのが常だった。
 最初の日のように、サクを無造作に複数の男達に投げ与えることもあった。何度も経験を重ねるうちにサクも慣れ、アヌスで快感を得ることもできるようになってはいたが、男に、しかも複数に犯されるという状況に対する強烈な不快感だけはどうにもならなかった。
 嫌悪と快楽との板挟みになり、悲鳴を上げ、暴力的に犯され続けるサクをうっとりと眺めながら、愛飲しているワインを口に運ぶのがアリサはお気に入りのようだった。

 サクが泣き叫ぶのを見るのが何より好きなようであるアリサは、快楽責めにすることの他、その肉体に苦痛を与えて責め立てることもよくやった。
 サクを天井から吊るし、しなやかな身体を汗でどろどろになるまで鞭打つなど序の口だった。音が激しいだけで痛みは軽い方であるバラ鞭を最初は使っていたが、やがてかなりの痛みを与える型の鞭にそれは変化した。
 さんざん鞭打たれて生傷だらけになったそこに、四肢を拘束して、アリサは真っ赤な低温蝋燭を垂らした。通常の蝋に比べればまだしも溶解温度が低いとはいえ、神経が剥き出しになった傷口に灼熱するそれを何度も垂らされて、サクは悲鳴を上げてのたうった。
 快楽と苦痛を同時に与える、ということもよくやった。催淫剤だろう妙な薬を飲まされることもしばしばあり、鞭打ちのときは、よくほぐしたアヌスにローターやバイブ、アナルビーズなどを入れたままにするのが当たり前になった。
 吊るしておいて自由を奪い、硬く尖らせた乳首にクリップをつけて締め上げ、さらにそこに電流を流していたぶることもした。激痛にサクが身悶えるところを、アリサはこの上もなく甘くねっとりと、その下半身を愛撫した。
 気持ちが良いのか痛いのか分からなくなり、そうしたときのサクは普段よりいっそう、壊れるのではないかというほど激しく泣き叫んだ。
 次第にサクは、与えられる感覚だけに耽溺するようになり、行為の最中は何も考えなくなった。

 アリサ好みに飾られ、夜ごと与えられる狂気のような絶頂に翻弄される生活は、サクの外見と印象に大きな変化をもたらした。
 常にけだるさを含んだ目つきに媚薬を呑んだような色香が漂い、ささいな仕種のひとつひとつに、服の下に覗く素肌のなめらかな陰影に、奇妙な艶が見え隠れし始めた。
 せいぜい眉を整えた程度、化粧など一切しておらず素のままの姿でありながら、時折ぞくりとするほどのなまめかしさを見せるようになったサクの姿は、アリサをひどく喜ばせた。そしてそのなまめかしさをさらに引き出そうとするかのように、毎夜淫蕩に責め続けた。


 カズヤもかつてはここにいたのだ、ということを、ある日何気ない会話の中でサクは知らされた。
 そういえば、すっかり忘れていたが、サクと初めて会ったとき、アリサはカズヤの名前に反応していた。
 ​​​──カズヤもあの変態女に飼われていたのか。
 アリサのいない曇った午後、大きな窓から灰色の廃都を眺め下ろしながら、サクはかつて何も知らない自分をいいように弄び、蹂躙したその男を思い出していた。
 カズヤにあったあの奇妙な色艶は、カズヤもまたアリサに飼われていたからだったのか。そう思うと、妙に納得できた。
 カズヤはどんな経緯でアリサに拾われ、どのように扱われ、そしてどうやってその手を離れたのだろう。
 この灰色の街のどこかにいるカズヤのことを思うと、ずくん、と身体の芯が疼いた。あの日カズヤにやられたことのすべて、あのときの感情のすべては、サクの奥深くに決して抜けない楔のように打ち込まれていた。
 ……あのときカズヤに出会い、水とパンを与えられたことで自分が生き延びたことは事実だ。
 だがそれと引き換えに自分が差し出したものは、あまりにも大きかった。あの日を境に、自分はもう「外」には完全に戻れなくなった。
 今なら、カズヤはどうするだろう。
 ​​​──そのキレイな身体も、キレイな顔つきにも、吐き気がする。
 あのときカズヤはそう言った。サクを犯し、それまでの価値観も矜持も、すべてを粉々にして奪い尽くした理由がそれだったのなら、カズヤは今のサクを見てどうするのだろうか?
 かつて自分と同じようにアリサに飼われていたというのなら、カズヤもまた、今の自分のように夜ごとアリサに虐げられ、慰み者になっていたのだろう。
 あの冷たく整った顔が、高慢に自分を見下ろして嘲笑い犯したあの顔が、自分と同じように快楽と苦痛とに引き歪み、追い詰められては泣き叫んでいたのだろうか​​​──自分と同じように。
 ぞくり、とサクの全身を、また芯からあやしく震わせる感覚が走り抜けた。
「……はっ……」
 一瞬確かに熱く脈動した股間に、サクの唇から思わず小さな吐息が洩れ、震えた。
 それをもたらしたものの正体は、混沌として、サク自身にも掴めなかった。だがはっきりと、痺れるような劣情の予感であることだけは確かだった。
 そのぞわぞわと足元から自分を呑み込んでしまいそうな感触に、サクの身体がグラリと揺れ、窓に思わず手をついた。
 己の内の最も深く最も暗いところから生まれてきたその感触は、混沌としすぎていて、サク自身にもそれが何なのか分からなかった。
 だが何か、それを正面から見つめては、受け入れてはいけない気がした。ひどく厄介で、危険で、そしてそれでも尚見つめて撫で回したくなるような、たまらなく甘いものである予感がした。
 己の胸に満ち始めたその闇よりも暗く混沌としたものを、サクは棒立ちになって凝視していた。


 それからサクは、暇さえあれば無意識のうちにカズヤのことを考えているようになった。
 日中はぼんやりとして、表情らしい表情を浮かべることもなくなったサクが、時折ごく僅かに口元を綻ばせていることがある。それを見て、アリサが首を傾げた。
「どうしたの? 何か良いことでもあったのかしら?」
 お気に入りの場所である、廃都を見下ろせる大きな窓枠の上に今日も座っていたサクを、アリサは歩み寄って抱き締めた。その窓枠は出窓型になっており、かなり幅があって、人ひとりであれば楽に腰掛けていられる構造になっていた。
 アリサはそのまま、出会った頃に比べたらかなり色が白く、そして細くなったサクの首筋にキスをした。ジムで毎日運動はしていたし、そこまで筋肉が落ちたわけではなかったが、行動範囲が狭まり絶対的な運動量が以前より減ったサクは、全体にいくらか細くなっていた。
「そんなところ」
 サクは薄く微笑んだまま答えた。
 その首筋に口付けていたアリサが、赤い唇を割ってぬめる舌を覗かせ、這わせた。それだけでひくりとサクが反応し、もっと愛撫を求めるように白い喉を反らせた。
「何を考えてたの? それとも、誰か?」
 サクの首筋に唾液をなすりつけるように赤い舌を辿らせ、そのシャツの下に手を差し込みながら、アリサは尋ねる。アリサの舌と指先が這い回るたびにぞくぞくと快感が這い上がり、サクの呼吸が早くも乱れ始める。
「……誰だと思う?」
「さあ。私はあなたのことなんか、何も知らないわよ」
 アリサがサクのシャツを大きくはだけさせ、すでに尖り始めていた乳首を、爪の先で強く挟んだ。走った痛みに、サクが小さく悲鳴を上げて仰け反った。
 その背を撫で回しながら、アリサは痛みを与えたばかりの突起に今度は舌の先でついばむように触れる。背中や腹や首筋の弱いところばかりを徹底して撫で回され、サクがあられもない声を上げながら身体をくねらせた。
 力が入らないようにぐったりしているサクを窓枠にもたれさせ、アリサは執拗にその身体に指を這わせ続ける。そして片方の乳首だけを、ちろちろと舌先でこねまわす。
「あっ……あ、……ふぁ……っ」
 すっかり呼吸が荒くなり、うっすらと汗を浮かびあがらせながら、サクは小刻みに喘ぎ声を上げた。
 あらゆる手でいたぶり尽くされることに慣れた身体は、ごく柔らかな愛撫にも過敏に反応する。アリサが執拗に片方の乳首しか刺激しないことが、たまらなくもどかしかった。
 アリサが尖りきったサクの乳首に吸い付き、ちゅうっと音を立てて吸い上げる。コロコロと硬いそれを舌先で転がす。そのたびにサクは声を上げてひくひくと震え、たまらないように潤んだ瞳でアリサを見上げた。
「そっちばっかりじゃなくて……っ……く、っ……おねがい……」
 責められ続ける片方の乳首ばかりが熱く膨らみ、刺激を一切与えられていないもう片方の乳首は、刺激を待ちわびて可哀想なほど尖って震えている。背筋をつうっとアリサの爪が滑り落ち、サクの上半身が反り返った。
「かわいいおねだりだけど、夜までおあずけよ」
 アリサは瞳を細めて微笑すると、すっかり呼吸の荒くなっているサクの顎をすくい上げて唇を重ねた。その指先が悪戯するように、充血しきった乳首をつつき、転がし、こすり上げる。そのたびにサクの喉から、押し殺された濡れた声が上がった。
 最後に指先で尖ったそこをピンとはじき、アリサは離れた。
「私はこれから出かけるの。私の前で他の誰かを思い出したりした罰よ。夜までこれを入れていなさい」
 力なく窓枠に寄りかかって乱れた呼吸を繰り返しているサクに、アリサは戸棚から取り出してきたアナルビーズを差し出した。
 潤んだままの瞳で見上げるサクの頬に、アリサはそれをぴしゃりと打ち付けた。
「わかったの?」
「……わかった」
 サクの手が、抵抗も示さずそれを受け取った。
「それから、自分でするのは勝手だけど、私の前以外でいくんじゃないわよ」
「……うん」
 素直に頷くサクの頬にアリサはキスをして、部屋を出て行った。

 サクは手の中の透明な玉の連なりをしばらく無表情で見下ろしていたが、やがてごそごそと自分で下半身の衣服を下ろした。淫具に舌を這わせて一通り濡らしてから、後ろの穴に挿入し始める。
「あっ……あ、くぅ……」
 体内に異物が入り込んでくるぞくぞくする感触に、たまらずサクは前のめりになった。そう太いものではなかったが、ろくな潤滑剤もなく自らの手で押し込んでいるという状況が、挿入を手間取らせる。
 それがかえってじわじわと押し込まれてゆく感触を高め、直腸内であやしく蠢めくものを、無意識に締め付けずにいられなくさせた。
「あ、あっ、はっ……くっ……はぁ、……ッ……」
 自らのアナルが丸く連なる異物を食んでゆくにつれ、たまらなく湿った声がサクの喉からこぼれ落ちた。窓枠の上に這いつくばるようにして、顎を反らせる。
 その脳裏には、はっきりとひとりの人物の姿が浮かんでいた。感じすぎてはいけない、達してはいけないと思いながらも、アナルビーズを抽挿させ始める手を止めることができなかった。
「あ、あッ……ふ、っくぅッ……あッ………!」
 奥まで差し込んだそれを、ゆっくりと体内の肉壁をこすり上げるようにしながら引き出し、またずぶずぶと埋める。それを繰り返すうちに息が上がって、うずくまったままサクは身体を震わせた。
 うっすらと朱に染まって汗ばみ始めた顔がひどく淫猥な色を帯び、伝った汗が首筋をすべって鎖骨のくぼみに溜まる。伸びてきた黒髪が、頬や首筋に乱れて貼りつく。
「ああッ……くッ、ぅんっ……はぁッ……あ、はッ……んッ!」
 高まってゆく声と性感をもはや止められず、サクは身体を震わせた。
 このまま達してしまったら、夜になってまたアリサにどんなひどい目に遭わされるか分からない。そう頭では分かっていても、どうにも止まらなかった。
 自分が感じる場所は、自分で知り尽くしている。そこを的確にこすり上げ、刺激すると、目の前がちかちかするほどの快感があふれた。達してはいけない、ということが逆に身体を燃え上がらせたのかもしれず、そして今、自分の頭に浮かんでいる人物にも、サクは腰をくねらせながら自分で驚いていた。
 ​​​──自分は今、カズヤに犯される妄想をしながら自慰をしている。
 その事実が、そう自覚した瞬間に、ぞくりと凄まじいばかりに全身を総毛立たせた。
「……はッ……あッ、あッ、くぅッ……!」
 それを自覚した瞬間、サクはアナルビーズをいっそう激しく動かし、自らを責め立てた。
 もう止まらない。身体が芯から熱く燃え上がって、妄想によってカズヤに犯されている下腹から、ありえないほどの快感が押し寄せてくる。
 自分で自分の身体を支えていられなくなり、窓枠の上に突っ伏した。ぐちゃぐちゃと淫らな音が響き渡るほど乱暴に、自らの穴にアナルビーズを出し入れさせながら、サクはよがり狂った。
「ッん……はッ、はッ……はあッ……ああぁあッ!」
 ついに限界に達し、絶頂を迎えた。びくびくっと背が弓なりになり、ひくつきながら強烈に尻穴がアナルビーズを締め上げた。反り返っていたペニスから、白濁した体液が吐き出された。
 汗びっしょりになった身体で、サクは荒い呼吸を繰り返した。痺れるような快感がまだ尾を引いて、窓枠の上にうずくまる。
 たまらない陶酔感と、同時に胸の奥底から湧き上がるどす黒い感情を自覚していた。
 ​​​──なぜ、どうして。
 唇を強く噛み締め、自分の胸に爪を立てて、抉り付けるように抱え込んだ。
 ​​​──なぜ、自分はこんなことをしている。
 指先まで痺れるような快感の余熱に、しかし猛烈な嫌悪感が混ざり合う。あのときカズヤに対して感じた怒りや憎しみが、まるで昨日のことのようにそのまま胸の奥から吹き上げてくる。
 それは全身を炙るように、絶頂の余熱からすりかわって広がった。切れるほどに唇を噛み締めて、サクは抱き締めた自分の身体にさらに深く爪を立てた。
 もう全部忘れていいはずだ。なのに、あの日自分のすべてを奪い尽くしてあざけり笑ったあの男が、なぜこうまで脳裏に、身体の奥に刻み付けられて消えていかない。もういいはずだ。あのとき自分はすべて失った。今さらもう、奪われるものなんてない。なのになぜ、今も尚、あの男はそんな自分から更に何もかもを奪おうとする?
 胸の中が猛烈に焦れるようで、苦しくて、サクは悶えた。アリサにどんなにひどい苦痛を与えられているときより苦しかった。
 近頃は痛みや快楽による単なる生理反応以外でこぼれることもなくなっていた涙が、熱く噴き出してきてぼろぼろと頬を伝った。
 自分を抱き締めるようにうずくまりながら、サクは身体を震わせて泣いた。

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