蓮の章 第八のパンドラ(1)

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 サクが消えたことに気付くと、今度はレンは、迷いもせずにサクを捜して廃都を飛び回り始めた。
 ほんの一瞬の油断だった。本当に、ほんの数分。おかしな物音がすればすぐに飛び出していける程の距離。
 だが何の騒ぎもなく、たったそれだけの空白のうちに、サクはおそらく抵抗すらすることなく連れ去られてしまった。
 なぜほんの僅かであれ目を離すようなことをしたのかと、自分の迂闊さを呪い、サクを案じるあまりに頭がガンガンして吐き気がした。
 無事でいてほしいと、それだけを祈りながら、そこら中を飛び回ってサクの足取りを探った。サクを恨む者、サクに魅せられて奪い去りたいと思っている者。あの危なっかしい少年を狙う相手の心当たりなど、ありすぎた。
 そしてじきに、サクはエヴァンという、アリサの上にいた男に連れ去られたことが分かった。そのへんの粗野な連中に連れ去られたにしては、確かに手際が良すぎた。
 だが何にせよ、最悪の状況になったことに違いはなかった。
 レンは一旦、備品などを置いている部屋に立ち寄った。何かではぐれたらここに、とサクと普段から申し合わせておいた隠れ家だったが、淡い期待など嘲るように、部屋はひっそりと無人だった。
 相手がどこにいるかは、既に分かっていた。だがそこは廃都の中心にある巨大なビルで、身一つで自分が乗り込んだところでどうなる、と思ってしまうような場所だった。だがそれでも、立ち止まれなかった。
 サクに何かあれば、それは自分の責任だ。なぜ油断したのか。今頃どうしているのか。何度も吐きそうになり、弱っている場合じゃないと、自分を叱咤しながら部屋をひっくり返して乗り込む為の身支度を進めた。
 物音がして部屋のドアが開いたのは、そのときだった。
 え、と振り返った先に、サクが立っていた。日が傾きかけて薄暗くなっている外の景色が、ドアの四角い枠の向こうに見える。
「……サク!」
 信じられない思いで、レンはサクに駆け寄った。
 サクは無言で部屋に入ってくると、レンに向かって足を運んでくる。ほんの数歩の距離は、すぐに縮まった。
「おまえ、無事で……」
 安堵のあまり声が震えかけ、しかし飲み込んでサクの姿に目を走らせる。その白いシャツの下に覗く首筋に、これでもかというほど赤い刻印が散っていた。
 思わずサクの手を掴む。ぼんやりと立ち尽くしているように見えるサクは、されるがままだった。
 指先近くまで隠れそうな長めの袖の下に素肌が見え、その手首の周囲が見るも痛々しい生傷だらけであるのが分かった。明らかに拘束されていた、そして激しく抵抗したであろう痕。
 確かにサクは、今ここにいる。だがこれは、無事といえるのか。
「もうあんたに会わない」
 うつむきがちだったサクが、顔を上げないまま、ぽつりと切り出した。ひどく乾いた声で。
「……サク」
「新しい飼い主が見つかった。そいつのところにいく」
 レンはサクを凝視する。真っ白い顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
 レンを一目で魅了した、魔物のように妖しく美しく、そして強烈に艶を帯びていたはずの黒い瞳。最近はふと穏やかな光を浮かべるようにも、逆にひどく不安そうに揺れるようにもなっていた、それでもレンをはにかみながら真っ直ぐに見つめるようになっていた瞳に、今は何の光も浮かんでいない。まるで魂の底まで、すべての感情を根こそぎにされてしまったように。
「それじゃ」
 言うだけ言ってしまうと、すぐにサクは背中を返そうとした。
 何が起きたのか分からず、レンは一瞬混乱した。だがハッとして、サクの手にふれている指に力を込めた。咄嗟に加減のない力で傷だらけのその手首を握ってしまい、サクが痛そうに顔をしかめた。
「……ッつ」
「あ、悪い」
 慌ててサクの手首を放したが、レンはすぐにその手を手首からもう少し上に移す。サクは力が入らないように、足下をふらつかせた。
 これほど頼りなげに、目の前にいるのに今にも消えてしまいそうに見えるサクなど初めてだった。不安定だとは思っていたが、それでもレンと居るときのサクは、今までのサクは、自分の足できちんと立っていた。
「おまえ……何があった」
 その傷のない肘の下あたりを掴み、正面からサクの顔を覗き込んで、レンは尋ねた。サクはレンを見ようとしなかった。
「何が」
「何が、じゃねぇ。何があったって聞いてる」
「……飼い主が見つかったって、言ったはずだけど?」
 ほんの少しだけ、サクの目許が歪んだように見えた。だが表情の抜け落ちた顔つきに変わりはなかった。
「飼い主って誰だ」
「知らない男」
「それでおまえ、いいのか?」
 尋ねると、サクは明らかにうるさそうにレンを一瞥した。
「何が。何なの、おまえ」
「何なのじゃねえって」
「何なんだよ。関係ないだろう」
 たまりかねたように、サクがレンの腕を振り払った。表情を失っていた白い顔が、揺り返しのように大きく歪んだ。完全に上ずった声が強く吐き出された。
「もういい。どうせ俺なんてこんなもんだ。もういいんだよ。もういい」
 もういい、と何度も繰り返しながら、まるでその姿は嗚咽しているように見えた。涙などその頬にはなかったが。
 その姿を凝視しながら、レンの表情に変化が生まれる。ひどく驚いていたようだったのが、何かを決意したように、強く、真っ直ぐにサクを射抜くように見る。
 レンはサクの両の上腕を、強く掴んだ。
「サク」
「……何」
「俺、おまえに言ってなかったことがある」
 そこにある声音の微妙な変化に、サクは視線を動かした。レンはひどく真剣な顔をしていた。
サトシさん。覚えてるか」
 まったくなんの前触れもなく、突然その口から出た名前に、サクが大きく目を見開いた。
「……さとし、さん」
「うん。覚えてるだろ? ……おまえの兄貴代わりだった人だ」
 静かにゆっくりと、サクをできるだけ刺激しないように、レンは言葉を続けた。黒い瞳を、真っ直ぐに見つめたまま。
「俺な。……俺、俊さんに頼まれたんだ。ほんとは俊さんに頼まれて、ここに来た。おまえを捜し出してくれって言われてさ」
 サクの唇が、腕が、身体が、小刻みに震え始めていた。愕然としたように、黒い目を見開いたまま。
 レンがわずかに視線をうつむけた。何かを回想しているように。
「俊さんは、ずっとおまえのこと心配してて。俺におまえを捜し出してくれって、もしまだ無事でいるなら一緒にいて、助けてやってくれって言ったんだ」
 今まで聞いたことがないほどレンの声は低く、決然としていた。
 サクは何も言わずにそんなレンを凝視している。凍りついたように。
「でも俺が今こうしてるのは、俊さんに頼まれたからじゃない。おまえに会って、俺がそうしたいって思ったからだ。おまえと一緒にいたいと思った。おまえが生きるのを守りたいって思った」
 レンが顔を上げて、この上もないほど真剣にサクを見つめた。
「おまえ、これ以上ここにいたら駄目だ。この街から離れなきゃ駄目だ。このままじゃおまえ、この街に殺されちまう。一緒に廃都を出よう。ここから逃げるんだ、サク」
 ぐらりとサクの身体が揺れた。凍てついたようにレンを見返したまま。
 その顔から、唇から、完全に血の気が引いていた。青ざめた唇が、震えるように動いた。
「……何だよ。それ」
 かすれた声が落ちた。よろめいたサクが、全身の力で、激しくレンの腕を振り払った。そして絶叫した。
「​​​──今さら何だよっ!!」
 よろめいたまま、サクがドアに走り出した。
「サク!」
 咄嗟に追いかけようとしたレンを、ドアの前でサクが振り返った。ベルトの後ろから拳銃を引き抜き、真っ直ぐにその銃口をレンに向け。
「来るなッ!!」
 割れた声で怒鳴りつけた。
 見開かれた目の爛々とした耀きに、レンは足を止める。ここで近付いたら、間違いなく撃たれることが分かった。ぎりぎりとサクが歯軋りする音が聞こえた。
 サクはレンを激しく睨みつけたまま、後ろ手にドアを開けた。そして外に向かって身を翻した。
 遠ざかる足音に、レンも弾かれたように駆け出した。
 ここでサクを行かせたら、見失ってしまったら、すべてが終わってしまう。絶対につかまえなければいけなかった。悪夢を断ってやるために。彷徨い続けた傷つきすぎたその魂を救ってやるために。
 全力で、レンはサクを追いかけた。


 薄暗い中を、サクは闇雲に走り続けた。どこをどう自分が走っているのかもどうでもよかった。
 全力疾走を続ける肺と心臓が悲鳴を上げ、喉がヒュウヒュウと音を立てて痛んだが、自分の身体のことも自分の周囲にある景色も足下のアスファルトも、何もかもが意識の外にあった。
 ​​​──なぜ今さら。
 頭の中をぐるぐると凄まじい勢いで、爆発しそうな勢いで、様々なことが駆け巡っていた。この廃都を訪れてから起きたすべてのこと。どれほど多くの手が、言葉が、自分をめちゃくちゃにしてきたか。何度でも心を切り裂かれて、身体を痛めつけられて、身体からも心からも血を流しながら、すべてを飲み込んできた。自分を犯すすべてのものを激しく憎悪し、炸裂する怒りに身を灼いて、ためらいもなく自分を害する者達を撃ち砕いてきた。
 なぜ、今さら。
 犯すことも犯されることも、殺すことも平気になってしまった自分が、今さらどこに戻れるという。心が千切れる。千切れる心などもう持つのをやめたはずなのに。最も深い奥の奥に押し込められていたそれが、無慈悲に残酷に、悲鳴を上げて切り裂かれてゆく。
 なぜ今さら。ここから出ろと言う。
 廃都を訪れる前のことがよぎった。何も知らず当たり前のように恵まれすぎた環境に甘えていた。毎日当たり前のように好みのものに囲まれて柔らかなベッドで眠って、決まった時間に起きて制服を着て、決まった道筋で学校に通った。ごく当たり前の日常。今はもうそれこそが夢に思えるほど遠すぎる風景。小さな弟の紅葉のような手。父の冷えた眼差し。悲しげな母の姿。何気ない日常の続きのように自分を廃都に誘った車。遠目に見た圧倒的な廃都の影。向けられた銃口。
 もう戻れないと思ったからこそ締め出した。狂った日常を受け入れた。失われた穏やかな日々はあまりにも美しく甘すぎて、そうでもしなければ耐えられなかった。
 それなのにこじ開けられていく。閉ざして押し殺した心が。
 ​​​──壊れる。
 必死で押さえつけて、封じ込めてきたすべてのことが、雪崩を打つように決壊してあふれてくる。心を突き破って、怒濤のようにあふれてくる。
 走り続ける全身が限界を訴えて、足がもつれた。どことも知れぬ路地で思い切り転倒したが、身体の下敷きになった手にも、アスファルトに強く摺れた身体にも脚にも、痛みを感じない。何も見えない。ガクガクと全身が震えた。荒い呼吸音ばかりが自分を埋め尽くした。
 ビシリと自分に亀裂が入る音を聞いた気がした。
「う……あ……あ…………」
 震える掌で頭を抱える。乱れた黒髪を握り締める。胎児のように丸まった全身が激しく震えた。震える喉を、すべてを切り裂くような咆哮が突き破った。
「うああああああああああああッ!!」

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