氷雨に訪う (三)

栞をはさむ

 切り拓かれていない森は、鬱蒼と深かった。まして夜の闇の中、さらに雨で視界が悪い。
 深い闇を抱く樹木の間は、どこもかしこも同じに見える。細い獣道は通っているが、ごつごつとした木の根が足元を這っていて、進む方角よりも足場に注意しなければならなかった。そのせいで、少し森に入り込んだら、もう方向が分からなくなった。
 雨の匂いに、いっそう濃い土と緑の匂いがむせ返るようだ。妙に息苦しい気がするのはそのせいか。それとも、いつになく緊張して、胸を押さえつけられるような心地がするせいだろうか。
 随分奥へと入り込んだ気がしたが、そんなふうだったから、思ったほどの距離は来ていないのかもしれない。どこまで行くのだろう、と思いながら小さな野鼠を追っていると、唐突に、いくらか視界がひらけた場所に出た。
 捻れた木々の間に、子供の背丈ほどの苔むした岩がある。その上に、巨大な蛇が蜷局とぐろを巻いていた。女の上半身に、蛇の胴体と無数の節足を持つ、異形の妖が。
「蓮華……」
 やはり、覚えがある。
 姿かたちや妖気が記憶にあるものと異なりすぎていたから、すぐには分からなかった。この気配は、確かにかつて故郷で……終の涯で関わったことのある女妖のものだ。随分血の臭いと禍々しさが濃くなっているが、間違い無い。
 濡れた岩の上から、裸身を打つ雨のことなど意にも介していない様子で、蛇女へびめ──蓮華が夜光を見下ろした。白眼の無い雌黄の眼が、湿った闇の中、ぼんやりと光っていた。
「素直に全部置いて、一人で来たじゃないか。あの御方に繋がるものなんざ、物騒だったらありゃしないからねぇ。そこだけは褒めてやるよ、夜光」
 夜光。錆び付いたような声音で、低く名を呼ばれたとき、夜光の背筋がざわりと粟立った。
 蓮華のすべてから押し寄せてくる。この世で最も忌まわしいものの名を呼び、目にするような、強烈な負の感情。その雌黄の両眼には、滾るような憎悪が揺らめいていた。
「お久し振りです、蓮華」
 かつて知る姿とまったく異なる様相の蓮華に、夜光は呼びかけた。蓮華の事情は分からない。なぜ蓬莱に居るのか。なぜそこまで姿が変わってしまったのか。
 だが事情は分からずとも、理由は分かっていた。──他ならぬ夜光の過去の行状が、彼女をこんなふうにしてしまったのだと。
「お久し振り、か。ご挨拶だわねぇ。さすが、かの御方のご寵愛を一身に受けたご身分は、余裕が違うわ」
 蓮華は鼻先で笑った。笑ってはいたが、その両眼には、暗く澱んだ怒りと苛立ちが滲んでいた。
 かの御方、と蓮華がいうのは、終の涯の長のことだろう。そう呼ぶ声音に宿っているのは、夜光に向けられているのと大差ない嫌悪と、はっきりとした敵意。
 彼女の言葉になんと答えたら良いか分からず、また彼女も返答など求めてはいないだろうと、夜光はそれには答えなかった。
 かわりに、ある程度予想はついたが、問うた。
「なぜ蓬莱に居るのですか。こんなところで、何を?」
 一瞬、絶句したように蓮華が沈黙した。ざわっと、蓮華の長く黒い濡れ髪がざわめいた。
「おまえがそれを言うのか」
 いっそう低い、唸りにも等しい声音。蓄積され凝縮された激情が、歯軋りの隙間から黒い焔になって洩れ出すような。
 いきなり蓮華が動いた。飛びかからんばかりの勢いで岩を降り、濡れた鱗の光る腕が伸びてきて、夜光の前髪を鷲づかみにした。
 勢いで夜光の白い髪が靡き、かぶっていた白い被衣が外れて、千切られた羽根のように地に落ちる。顔に直接冷たい雨が降りかかってきて、夜光は思わず目を瞑った。
「おまえが! 私からあのひとを奪って、何もかもをぶち壊しにした、おまえがそれを言うのか!!」
 夜光の前髪を鷲づかみにした蓮華の腕が、憎しみのありったけを込めるように、ぎりぎりと力をこめてくる。
 夜光は痛みに顔をしかめたが、抵抗はしなかった。そのまま身体を引き上げられて、草履を履いた踵が地面から浮く。爪先も離れかけて、痛みと息苦しさに喉が引きつる。
 その様子を、爛々と燃え上がるような眼で、間近から蓮華が覗き込んだ。その大きく裂けた口から、しゃあぁ、という威嚇のような音と、生温かく血生臭い息が吐き出された。
「あのときの傷も、見事に綺麗さっぱりだ。まあ、あの御方なら、傷を消すくらい造作もないことだわねぇ。そりゃあ大事にされていたものねぇ、おまえは」
「蓮華……私、は」
 息苦しさの下から、なんとか口を開きかけた夜光を無視して、蓮華がにたりと笑みの形に口角を吊り上げた。
 蛇女の鋭い爪が振りかざされ、夜光の額を薙いだ。前髪を持ち上げられ、雨粒に晒されていたそこに、熱い痛みが走った。
 と思う間も無く、捨てるように投げ出される。濡れた地面の上に身を打ち付けられ、拍子に草履が片方脱げて、どこかに転がっていった。
 濡れた地べたに倒れ込んだせいで、髪も頬も衣も泥まみれになる。肩も背中も、強く打ったところが痛んで、夜光は急に通った呼吸に咳き込みながら、さすがに小さく呻いた。
 焼けるような痛みに、額を押さえる。「あのとき」と同じ、右側の額。そこの肌が裂かれていた。伝い落ちた鮮血が、押さえた白い手を、たちまち赤く濡らした。
 その様子を見下ろしながら、蓮華が高笑いした。
「あっははははは! 無様だねぇ。おまえの方こそ、なんでこんなところに居るのさ。終の涯から追放でもされたの? 鳥籠の外は、生憎そんなに優しくは無いのよぉ?」
 蓮華の嘲笑う声を聞きながら、夜光は何度か瞬いた。額の痛みと出血はひどいが、傷そのものは、そこまで深くはない。だが流れ伝う血が右目に入って、視界がさらに悪くなってしまった。
 白い手を伝い落ちる鮮血は、凍るように冷たい雨の滴と混ざって斑になる。夜光はふいに、寒さを覚えた。濡れた衣に、次第に冷たい雨が染み込んでくる。唇から零れる息も白い。雨に濡れて重みを増してゆく髪が、首筋や頬に張り付き始めた。
「……あのときのことは、詫びる言葉もありません」
 濡れた地面の上で雨に打たれるまま、夜光は言った。寒さ以上に、身体の痛み以上に、胸が重く苦しかった。
 蓮華の言葉もぶつけられる感情も、その行動も、何一つ自分には責められない。一切を甘んじて受けるしかない。なぜなら、彼女の言葉も感情も、何一つ間違ってはいないからだ。
 夜光の言葉を受けて、ふっと蓮華が笑いを消した。氷雨よりも尚冷たい眼差しが、夜光を突き刺すように見下ろした。
「その通りよ。詫びなんざ、今さら聞きたくないね」


 ──あの頃の蓮華は、美しい娘の姿をしていた。
 様々な妖や神々が年中ふらりと遊びに訪れる、季節の花々にあふれた華やかな異界の地。「終の涯」と呼ばれるそこは、夜光にとっては故郷でもあった。
 蓬莱で生まれ、後に終の涯の長に養子として引き取られた夜光は、長じて後、妓楼・最玉楼さいぎょくろうの「花」──つまり高級男娼──となった。
 その理由は、極めて利己的かつ無慈悲極まるもの。己の悲願を叶えるための「生け贄」を探すため、だった。
 ──半妖ではなく、完全な妖になりたい。
 蓬莱にある人間達の村で、夜光は生まれた。半分とはいえ「鬼の子」であったがゆえに、夜光は乳飲み子の頃から人間達に恐れられ、ひどい虐待を受けながら、土蔵に幽閉されて育った。言葉も、自分の名前すら分からない環境下で幼少期を過ごし、あわや死にかけていたところを、終の涯の長に救い出された。
 そんなふうだったから、成長し物事の判別がつくようになるにしたがって、夜光は「人間」という種族を憎み、怖れ、魂の底から嫌悪するようになった。
 ──人間の血など要らない。完全な妖になりたい。
 夜光は、いつしかそれを強く願うようになった。この身にあの愚かで穢らわしい人間どもと同じ種の血が流れていることが、半分だけとはいえ人間であることが、震えがくるほどおぞましくて耐えられなかった。
 とはいえ、生まれついての種を異なる種に変えることは、困難である上に多くの危険と代償を伴う。それは世のことわりを捻じ曲げる禁忌、「断理だんりの法」と呼ばれ、終の涯の長ですら、夜光に施すことを拒否した。


 人の血を棄てたい、と強く願いながらも叶わずにいた夜光の前に、しかしあるとき、古き強大な力を持つ一人の天女が現われた。
みささぎ」とだけ名乗った天女は、「断理の法」に拠らぬ異種転換の術を知っており、まだ幼さを残していた夜光の首に「冥魂珠めいこんじゅ」と呼ばれる数珠を掛け、告げた。
 ──『まことの心を持つ相手とそなたが契ったとき、しゅが発動し、珠が割れる。珠は相手の魂魄を喰らい、封じ込める。そこにある冥魂珠の数は十。その数だけ贄を奉じ終えたとき、そなたの望みを叶えてやろうぞ』……
 まことの心を持つ者と契る。それとはつまり、自分を心から恋い慕ってくれる者と契る、ということ。それを数えて十回繰り返せば──つまり十の贄を捧げれば、願いが叶う。
 夜光の暮らしていた「最上級の妓楼」である最玉楼は、そのための舞台装置としてはもってこいだった。幸い、夜光は容姿は悪くない。長に手習いした多くの教養も身についている。ここで「花」となり、その道を極めて多くの者を惹きつけるようになれば、いずれその中から本気で夜光に惑わされる者も現われるだろう。
 気の長い話ではある。だがそれで「人間」であることを棄てられるのならば、やる価値はある……。
 自分のやろうとしていることは、他者の心を弄ぶ惨いことだ。とは、頭では分かっていた。けれど夜光は、己が大切に思うもの以外は、感情的には心底どうでも良かった。具体的には、義父である長。あとは、終の涯に来てからできた、ごく僅かな友人。それ以外がどうなろうと、まるで知ったことではなかった。
 誰かを慕うだの愛するだのは、そもそも愚かな世迷い言でしかない。そんなものに惑わされる相手に、甘い夢を見せてやった上で苦しませることも無く贄とするのなら、そう悪いことでもないだろう。真相は惨くはあろうが、知らないままでいられれば、むしろ相手にとっては幸せですらあろうというもの……。


 その自分の思考を、生まれ育ちがいびつであったせいだ、そのせいで情緒や慈しむ心が欠けてしまったのだ、と言うのはやすい。実際に夜光は、誰かを恋い慕う、特別な意味で愛しいと思う感情など、当時は少しも理解できなかった。
 だがそれは、夜光から恐ろしい企みを向けられた者にとっては、それこそ知った話ではない。犠牲になった者から見れば、夜光はただ心無い、己のためであれば平気でを他者を食いものにする、恐ろしい魔性でしか無かった。──ある一人の娘が、そうと見抜いたように。


 夜光はやがて最玉楼の誇る高名な「花」となり、多くの贔屓筋を持つ人気者となった。
 そしてなんら特別な感慨も無く、自身に溺れた者を二人ばかり、首尾良く冥魂珠の贄とした。ひとりは、仲間も居らずはぐれ者だという妖。もうひとりは「客人マレビト」と呼ばれる者──終の涯に流れ着いた「人間」の男だった。
 夜光自身は、自分が贄にした相手のことなどすぐに記憶の隅に押しやってしまった。しかし後日、それを許さない者が現われた。
 それは一人の美しい妖の娘で、夜光と同じように──格こそ落ちるが──遊郭の「花」である者だった。それ故に顔程度は見知っていたが、会話したことは無く、名前までは覚えが無かった。
 普段着でとくに随伴もつけずに街を歩いていた夜光を、突然、その娘は襲った。娘の手にしていた毒を塗り込んだ短刀は、夜光の額の右側からこめかみにかけてを、大きく傷つけた。娘は尚も短刀を振りかざしたが、周りに居た者達に、総出で押さえつけられ制止された。
 争いごとは御法度である終の涯で起きた、高名な「花」を昼日中の雑踏の中で見舞った流血沙汰は、大きな騒ぎとなった。何より終の涯の長が、溺愛する息子に傷を負わせた相手に激怒した。
 刃に塗られていた毒はすぐに解毒されたため、大事には到らなかったものの、夜光は数日の間、高熱に浮かされて寝たきりになった。
 やっと解熱して起き上がれるようになった後に、夜光は三つのことを聞かされた。
 夜光を襲った娘は、長の怒りにふれて、終の涯を追放されたこと。
 娘はどうやら、夜光に恋人を「惑わされた」上に「殺された」、と思い込んでいたようだ、ということ。
 そして話の最後に聞かされた娘の名は、「蓮華」といった。

栞をはさむ