夢のように穏やかで美しい、御伽草紙の中に出てくるような、その街──終の涯は、今年も麗しい春を迎えていた。
煌めく波頭にも似た、連なる甍の美しい街並みを彩る、色とりどりの春の花。街中を、あたりの野山を埋め尽くす、夢幻のような桜花の群れ。
「眠くなりますねぇ……」
広く明るい御殿の部屋で、ゆったりと朱色の脇息に凭れながら、長は小さく欠伸をした。
開かれた半蔀からは、青空と桃の枝が見える。遣り戸も大きく開かれ、微風に乗った淡い色の花びらが、時折舞い込んでくる。
几帳の薄絹や、腰まである美事な黒髪をそよがせる気持ちの良い風に、長は金色の瞳を眠たげに細めた。
かくり。と、細い顎が落ちかけた。睫毛の長い目をしばたき、長はふるふると頭を振った。
「いけない。これは、本当に眠ってしまう」
居住まいをただして、さらりと立ち上がる。
銀糸で刺繍の施された白い着物に、蒼い帯。その上からふわりと羽織った、黄金を散らした淡い山桜色の長衣。
花の香を纏うかの如く優雅な佇まいは、華やかな春の王さながら。
居室を出た長は、出会う者達に気さくに声を二、三かけながら、自身の住まいである小御殿から最玉楼へと続く通路を、のんびりと歩き始めた。
「最玉楼」と呼ばれるこの大きな楼閣は、終の涯の住人達からは勿論、異界中の神々や妖達にも絶大な人気を誇る妓楼である。
豪奢で広大な最玉楼の楼主であり、この終の涯の「守護者」でもある長は、「名」を持たず、皆からただ「長」とだけ呼ばれていた。
終の涯に暮らす誰よりも長く、長はこの地に住んでいる。長は多くを語らず、故に、終の涯の誰も「長が何処から来て、いつから此処に居るのか」を知らない。
その昔は、長が慈しみ育ててきたこの稀有なる地を侵略せんと、多くの外敵が押し寄せてきた。それらを長自らが悉く徹底的に撃退し、今の平和がある。
そんな長だが、尊大な態度を取るでもなく、肩肘を張るのも、張らせるのも好まない。常に鷹揚に、花のように笑ってすごしている長を取り巻く空気は、誰に対しても寛闊で穏やかだった。
そんな長であるから、最玉楼は勿論、終の涯の住人達皆からも、大層慕われている。
陽はまだ天頂にあり、午睡に微睡むような最玉楼の中を、長はゆっくりと歩いていった。出会う一人一人をねぎらい、微笑みかける長に、そのたびに場を明るい笑顔と高揚が彩る。
愛らしい白い花をいっぱいに咲かせた姫空木が庭を埋める回廊で、やがて長は目指す姿を見つけた。
柔らかな乳白色の髪が、控えめな胡桃染の小袖の肩にふれる程度の長さで、微風に揺れている。たすきがけの姿で高欄を乾拭きしていた相手が、紫苑の色の瞳を持ち上げて長の姿を目にとめた。
「長様」
「精が出ますねぇ、夜光」
慌てたように背筋を伸ばしてお辞儀をした相手──夜光に、流水に白蓮を散らした柄の扇子をゆるりと動かしながら、長は笑った。
義理の息子である夜光が、いつまでたっても長に対してかしこまる様子を見せるのも、その律儀で真正直な性分のなせるわざだと思うと可愛い。夜光が本当は、長に対して心を許していることも分かっている。
ただ、だからこそ夜光は、必要以上に長に甘えまいと、普段は距離を取ることをやめようとしない。
そもそも夜光は、義理とはいえ長の息子なのであるから、最玉楼でこんなふうに下働きとして過ごす必要など、本来まったく無かった。だが去年の初夏頃に「花」を辞めてから、夜光はかわりに裏方の仕事に従事するようになった。未だにそれを、頑なにやめようとはしない。
「謙虚で義理堅いのは、本来は好ましいのですけれどねぇ……」
金色の瞳で夜光の姿を眺めながら、口許に広げた扇子の陰で、長はぽつりと言う。
「え?」
よく聞き取れなかったらしい夜光が、雑巾を手にしたまま首を傾げた。その姿には、自然と内から滲む気品がある。匂うように嫋やかで、長の目から見ても、やはり裏方仕事などをさせておくのは惜しかった。
乳白色の髪に紫の瞳を持つ夜光の容姿は、どこか夢見るように儚い。昨年の春に比べて、その線はますます細くなっている。
身に持つ色彩は、長のよく見知っているその「実父」に生き写しだったが、夜光の物柔らかで中性的な印象は、実父とは面白いほど食い違っていた。
夜光の実父であり、長の旧友でもある白い夜叉は、もっと鋭利で殺伐とした空気を纏い、行く手を遮るものは問答無用で薙ぎ払う、好戦的な気性を持っていた。優婉な夜光とはまったく違う、白き焔のような、猛々しい美しさを持っていた。
もう長いこと会っていない──今は生死すらさだかではない──旧友を思い起こしながら、長は扇子の陰で、ああでも、と思う。
纏う雰囲気こそ大きく違えど、どちらにも共通していることがある。それは頑固で一本気な気質と、生まれ持った品位だ。それは己で己を律する、強く歪みのない精神の顕れだった。
これほど美しいのだから、何も「花」としてでなくとも、芸子として座敷に上がることも悪くはないのに。夜光を見るにつけ、長は思う。
「……まぁ、それはまだ酷なことですねぇ」
とはいえ今の夜光には、客の前に出て笑うのはつらいことだろう。このまま夜光を埋もれさせるのは惜しい、とは思うのだが、今はまだ、何よりその心を気遣ってやりたくもあった。
花の薫を含んだ微風が吹き、長のしっとりと重さのある黒髪が揺れた。その一房だけを持ち上げて留めている、美事な黄金細工の髪飾りが、春陽に煌めいた。
「夜光」
ぱちり、と扇子を閉じて、長は所在なげにしている夜光に笑いかけた。
「そこの拭き掃除が終わったら、私の部屋においでなさい。一緒にお茶でも飲みましょう」
「え……でもまだ、他にお仕事が」
「皆には私から断っておきますから。仕事というなら、退屈している親の相手を務めることも、おまえには立派なお役目ですよ?」
強引に、しかし口調や雰囲気の柔和さからそうは思われない調子で言ってのける。
夜光の返答を待たず、長は「では、またあとで」と、薄い長衣を返して歩き始めた。
夜光が戸惑いながらも頭を下げるのを背中で感じながら、長は心の中で、小さく嘆息した。
──本当に、もっと力を抜いて生きてくれればいいのに。
けれど今力を抜いたら、それこそ夜光は、自分を支えきれずに崩れてしまうのだろう。
かといって、あのまま張り詰めたように生きていても、いつかふつりと糸が切れてしまうのではないか、と心配になる。
──あのとき、私がもっと注意していればよかったのだ。
悔いてもどうにもならぬことではあった。昨年の初夏に起きたひとつの出来事が胸中をよぎり、長は慣れることのできない苦味を覚えた。
「まったく。ままならぬこと……」
長は夜光から充分に離れたところで、今度ははっきりと、あえかに嘆息した。
「お茶、ではなかったのですか?」
長の小御殿。その明るく広い板敷の間で、長と差し向かいに座った夜光が、困ったように首を傾げた。
その手には、半ば透けた玻璃の杯。
甘い香りを漂わせる透明な液体を、長のほっそりとした白い手が、揃いの玻璃の容器から注ぎ入れた。
「お客様が下さったのです。桃の弱い果実酒ですから、大差ないでしょう」
「いえ、大差あるかと」
「少しいただいてみましたが、果汁とたいして変わりませんでしたよ」
「でも、まだこんな明るい時分です。皆もまだ働いているのに……」
「ああ、もう。固いですねぇ、夜光」
長は自分の杯にも酒を注ぐと、朱の脇息に凭れて、大袈裟に溜め息をついた。
「夜は夜で、おまえは疲れたからと、さっさと部屋に引っ込んでしまうではないですか。たまには親孝行なさい。おまえがつれないものだから、私は寂しいのですよ?」
冗談めかしてはいるが、ちらりと持ち上げた長の切れ長の瞳には本気の色がある。「親孝行なさい」という長の一言と、その目付きに、夜光は首根っこをつかまれたように反論をやめた。
「……分かりました。いただきます」
据えられた座の上できちんと正座をし、夜光が杯を口元に運ぶ。気が咎めている風情だったが、一口果実酒を含むと、夜光は思わずのように表情を緩めた。
「美味しい」
ほどよく冷やされた果実酒は、桃の甘みと豊かな香りが、酒の旨みにとろけるようだった。
「そうでしょう?」
夜光の反応に、長も顔を綻ばせて杯を口に運んだ。
「まったく、おまえときたら。こうでもしなければ顔も見せてくれない。おまえのことだから、どうせ酒を飲むこともないのでしょう。少しは寛ぎなさい。一日もまともに休もうとしないと、皆もおまえの身を案じていましたよ」
長は薄い長衣を肩掛けのかわりにし、脇息に身を預けて杯を口に運ぶ。大きく開け放たれた半蔀や遣り戸からは、明るい陽光と桜の花びらが入り込み、その姿を天人の如く典雅に彩っていた。
「……そうでしたか。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
こちらは正座したまま姿勢を崩さない夜光が、深い紫苑色の瞳を俯けた。
長は決して責める様子ではなく、微笑を含んだ眼差しを返した。
「私に詫びても仕方がないでしょう。もう少し自分を大事にしてさえくれれば、私はおまえが何をどうしていても構いませんよ」
「はい……」
短く答え、夜光は静かに杯を持ち上げた。
果汁と大差ない、といった長の評はあながち的外れでもなく、とりとめもない話をしながら杯を傾けるうちに、どちらもかなり酒がすすんだ。ごく弱いものなので、長はまったく顔に出てもいなかったが、久方ぶりに酒を口にした夜光は、透けるように白い頬に、いつしか若干赤みがさしていた。
そのうち太陽が西に傾き、差し込む光が暮色を帯び始める。
開かれた遣り戸から、夜光がぼんやりと、夕暮れの空を眺めやった。その瞳が、強めの西日に潤むように、光を滲ませている。酔いのせいにも、眩しさのせいにも、うっすらと泣いているようにも見える加減で。
「この頃は、少しは眠れるようになりましたか?」
何気ない様子で訊ねた長に、遠い何処かを見るともなしに見ていた夜光が、視線を戻した。少しせわしなく瞬いたその瞳には、涙と呼べるほどのものはなかった。
「はい。……どうにか、少しは」
「そうですか」
長は杯を膳に置き、脇息から身を起こして夜光を手招いた。
「こちらへおいでなさい、夜光」
「はい」
何だろう、というようにしながらも、夜光は素直に従った。
手が届く距離に移動してきた夜光を、長は腕を伸ばし、白い袖の中に引き込んだ。柔らかな仕種ながら、有無を言わさぬ力でもあった。
驚いたように多少強張った夜光の、身の薄さと軽さを、長は直に確認する。しなやかに伸びた黒い柳眉がひそめられた。
「随分軽くなってしまいましたねぇ。量が入らないのなら、そのぶん栄養のあるものを摂らないといけませんよ?」
長の手が、夜光のよく梳られた乳白色の髪を、さらりと撫でる。そうしながら、もう随分と昔のこと──この子を初めて抱き上げたときのことを、長は思い出していた。
あの頃の夜光の髪は、こんなふうに綺麗ではなかった。額の角も見えないほど、もっと獣のように伸び放題で、泥と垢まみれで、ごわごわと固い手触りをしていた。
「……はい」
強張りを見せていた夜光から、ゆるゆると力が抜けてゆく。それと共に、ぱたりと着物の膝に水滴が落ちる音がした。
夜光がいくらか慌て、だが止まらないように、薄い掌を持ち上げて、涙に濡れている頬を覆った。
「すみません……」
夜光は嗚咽する声を押し殺しながら、それだけをやっとのように言った。
以前と何も変わらず物静かであるように見えて、今の夜光がどれほど苦しく思い詰めたものを抱えながら、今にも押し潰されそうになりながら、やっとのことで生きているのか。それを知っている長は、ただ優しく乳白色の髪を撫で続けた。
「良いのですよと、いつも言っているではありませんか」
自分を深く強く責め、奈落の底で独り苦しむことが罰だと思っている夜光は、ただ張り詰めるばかりで、誰かの前で泣くこともできない。だが少しは緩めてやらないと、自分で緩めるすべを知らないその危うく張り詰めた心の糸は、いずれ断ち切れてしまうだろう。
抱き寄せた夜光の胸元から、しゃらりと小さな音がした。それは着物の下に秘めるように掛けられた、水晶の珠を連ねた数珠が立てた音だった。
声を殺して泣いている夜光の手が、無意識のように胸元を押さえている。正しくは、懐中に挿し込まれた、一振りの匕首の感触を確かめている。
それは昨年の初夏、夜光自身が命を奪ってしまった、最愛の存在の形見。すべてを失ってこの終の涯に流れてきた人間の若者が、唯一つ夜光に遺した、形あるものだった。
──苦しいとも、助けてくれとも言わないこの子を、どうにかして救ってやりたい。
夜光が泣き止むまで髪を撫でてやりながら、長はじっとそれに思い巡らせていた。夜光を救えるものなど、今となってはこの世には存在していないのだ、と分かっていながら。
半身は人間であることを棄て、完全な妖となるために、「十の心と契りと命」を贄として捧げなければならない。
夜光がかつて立てたその願は、しかし果たされることなく途絶えた。生まれて初めて心から愛した相手を、結果的に願の贄としてしまったからだ。
「悔やむことばかりですよ、私も……」
夜も更け、揺らめく紙燭の明かりの中で、長はひとり溜め息をついた。
どれほど力ある存在として生まれようと、「心」というものは、あまりにままならない。
静かな夜気の漂う部屋で、長は一人ゆっくりと手酌で杯をやりながら、その出来事についてを思い起こしていた。
あの匕首の持ち主である「葵」という名の人間が、蓬莱からこの終の涯に流されてきたのは、ちょうど昨年の今頃。
彼のことは、長自身も快く思い、好いていた。情に篤く心根の真っ直ぐな、なかなか可愛げのある若者だった。
だが、葵があれほど思い切った行動に出るとは、正直思っていなかった。半妖である夜光の持つ深い闇と深淵を、周囲にかしずかれ大事に育てられた人間の若君である葵が、受け入れられるとは思えなかった。実際に葵は、一度は夜光を拒絶し、そこで二人の関係は終わったかのように見えていた。
してやられた。
という気持ちが、葵に対して、どこかで長の中にはあった。
あのとき強引に、葵を蓬莱に送り還していれば。その先に心から満たされる幸せがあったかは分からないが、そうしていれば少なくとも葵は、あそこで命を落とすことはなかった。夜光もまた、今のような魂にまで届くほどの傷を、心に負わずに済んだのだ。
「人間とは、存外にしたたかですよねぇ……」
神々や妖に比べれば、あんなに弱く脆く、たわいもない生しか持たない存在であるのに。あの、閃光のような強さは何なのだろう。幸も不幸も越えたところで、葵は見事なまでに、夜光のすべてを攫っていってしまった。
「なんとかしてやりたいものですねぇ……」
誰にともなく呟きながら、杯をほす。昼間に夜光と一緒に呑んだものよりもずっと強い酒だったが、長にとっては水のようなものだった。
そのとき。
──がたり。と、閉められていた遣り戸の向こうで、不意に大きな音がした。何かが突然ぶつかってきたような物音。
それと同時に、遣り戸の向こうから、突然ぶわっと膨れ上がった妖気があった。
長は思わず、杯を手にしたまま、遣り戸の方を見返った。
突然湧き上がった妖気は、おぞましいばかりに黒く穢れていた。だがその中に、確かに垣間見える光がある。──覚えのある白き焔。
まさかと、長は盃を置き、立ち上がった。それとほぼ同じくして、重く厚い遣り戸が荒々しく押し開けられていた。
黒く穢れた瘴気の塊が、視界のすべてを埋めるほど、どっと吹き込んできた。僅かに眉をひそめただけの長の周囲で、どす黒い瘴気の塊と化した妖気は、あっけなく掻き消えてゆく。
瘴気が晴れると、墨染めの装束を纏った上背の高い人影がひとつ、遣り戸に凭れかかっていた。その背後に浮かぶは、まだ細い上弦の月。夜風に舞う花びらが数枚、人影の長く流れ落ちた黒髪に絡んだ。
瘴気の塊は掻き消されたとはいえ、黒く穢れた妖気は、その人影から立ち上り続けていた。黒装束の人影は、明らかに呼吸を乱している。重い動作で素足を踏み出し、ぐらりとよろめいて、その手が遣り戸を掴んだ。
よろめいた己を恥じるように、だんッ! と強く、床板が踏み締められた。人影は真っ直ぐに身体を伸ばし、ひとつ大きく息を吸うと、堂々と胸を反らして長に視線を巡らせた。
「やっと来れた。久しいな、空の」
乱れていたはずの呼吸も伺わせず、若い男の声でそう言った口許が、にやりと笑んだ。その額には、黒髪の間に月明かりを浴びて鈍く光る、一対の白い角が覗いていた。
「槐……?」
長が半信半疑で、その名を呼んだ。何しろそこにあった姿は、長の記憶にあるものと大きく異なっていたのだ。
長のかつて知る槐は、強い妖気が白い焔のように身を取り巻く、乳白色の髪を持つ美丈夫だった。だが今そこに立つ姿は、存在の芯から黒く穢れ、髪色も濡れ烏のような漆黒に変じている。
何よりその顔には、半端に欠けたような面が掛かっていた。右半分の素顔は、口許を除いて見えない。左半面もまた、目許を面に覆われている。
黒装束から覗く素肌のあちらこちらに、かつては無かった捩れた傷痕が見えた。面に隠された顔にもまた、幾筋も醜い傷痕が走っているのが見て取れる。
槐はそんな己の有り様など意にも介さぬように、かろうじで見えている唇を、悪戯っぽく笑ませた。
「そう。俺だ。なんとか脱け出してくるまで、こんなにかかってしまった。俺の息子に会いに来たぞ、空」