「さて。呑もうか」
夜光と葵が部屋を出て行くと、槐が徐ろに言った。
「おまえの積もる話というのは、それですか」
脇息に凭れたまま、長が呆れた息を吐く。
「うむ。やることをやって清々したからには、次にやることは当然呑むことだろう?」
「おまえの理屈はよく分かりませんが。まあ、良いでしょう」
長はやれやれと、側仕えの者を呼び、酒膳の支度を言いつけた。
清らかな遣り水に睡蓮がとりどりの華を咲かせ、渡る涼風が心地良い広廂まで移動すると、そこに腰を落ち着ける。
やがて運ばれてきた膳を前に、互いに酌をして、芳しいそれを一口含んだ。どちらからともなく、ほぅと息が洩れた。
「……おまえも、無茶をしましたね」
しばらくどちらも黙って呑んだ後、長が呟くように言った。
「うん?」
「命の珠です。あれは、最後のひとつでしょう?」
「まぁな」
何食わぬ顔で杯を口に運んでいる槐に、長がやや柳眉を寄せた。白く美しい指が、杯を膳に置く。
「あれでは、あの子達の寿命が来るよりも先に、おまえは──」
「空よ」
特に凄むでもなく、だがはっきりと、槐が長の言葉を遮った。
「俺は今まで、随分と思うがまま、やりたいように生きてきた。もう充分だ」
「…………」
「なあに。残り火程度の命でも、まだ案外もつだろうさ。それに、あれのことはもうさほど心配しておらん。あれにはおまえがいる。何より、あの人間がついている」
槐は長を見ると、にっと笑い、酒を口に含んだ。
長はしばらく黙って槐を見つめていたが、やがてひとつ溜め息をつき、脇息に凭れ直した。
「まったく。仕様のないこと……」
呟き、再び嫋やかに杯を取り上げる。
やわらかな風が、最玉楼のそこかしこに咲く花の馨を運んでくる。槐が心地良さげに、長い黒髪をふわりと風に遊ばせるまま、きらきらと陽光を弾く遣り水を眺めやった。
「ここはまさに極楽よな。これならきっと、生きていても死んでいても、そう変わらんだろう」
「極楽にゆけると思っているのですか、おまえは」
長が小さく笑うと、槐はさも心外というように言い返した。
「当たり前だろう。俺は何一つとして、誰に何を恥じることもないぞ。しかしまあ、極楽がここと大差がないなら退屈ではあろうなあ」
「退屈のあまり抜け出しそうですね、おまえは」
「そうさな。あちらの世界にはきっと、俺なぞ及びもつかぬような猛者がごまんと居るだろう。そいつらを訪ねて歩くのも面白そうだ」
「あちらはさすがに、私の力の及ぶところではありませんよ。天から堕とされぬ範囲にしておきなさいね」
「心得ておこう」
そんな軽口とも知れぬ会話を、しばらく交わした後。
長が杯を置き、脇息から身を起こした。姿勢をあらためて、槐を見る。
「槐。私からもおまえに、餞というわけではありませんが」
「ん?」
「──以前、冥府に降りた際に、ひとりの女性と会うことができました。正しくは、彼女の散り散りになってしまっていた魂魄を呼び集めることができました」
槐の杯を運んでいた手が止まる。長は静かに先を続けた。
「本来なら、あの岩屋で散り散りになった時点で、とうに消滅していてもおかしくは無い。ですが彼女の魂の強さ、おまえと夜光への想いがよすがとなって、かろうじでそれを免れていたようです」
呆気にとられたように、槐が長を見る。長はその視線を真っ直ぐに受け止め、言葉を綴った。
「そんな状態でしたので、最初は言葉を交わすことすら困難でしたが。じきに彼女は、かつての姿を取り戻すことが叶いました」
「おまえ、いつのまにそんな……」
らしくないほど唖然と言った槐に、長は小さく、悪戯っぽく微笑した。
「冥府に出かけたと、以前言ったでしょう。葵殿のことより、私としてはむしろこちらの方が重要だったのですよ」
以前長は、葵の魂魄を探して冥府に赴いたことがある。そのとき確かに、他にも一つ二つ野暮用があった、とは言っていた。
だがそれが、まさかこんなこととは。
絶句している槐に、長は続けた。
「とはいえ今の彼女の魂魄は、私の守護を与えた上で、常世だからこそかろうじで形を保っていられるほど、ひどく弱ってしまっています。かりそめであっても、彼女を今生に魂寄せすることは出来ません」
「…………」
「ですがおまえが常世に旅立つ頃には、私の守護も要らぬ程度にはなっているはず。そのときは、彼女は必ず、おまえを迎えに来て下さるでしょう」
茫然と長の言葉を聞いていた槐が、膳に杯を置いた。いささか手元が狂ったのか、がちゃりと無骨な音がしたが、長はそれを咎めなかった。
槐は立ち上がり、数歩を歩いて、長に背を向ける格好で広廂の際に立った。
振り向かない槐の表情は伺い知れない。仄かに香る風が、その長い黒髪を、墨染めの衣を、洗うようにやわらかく流した。
暫し、そのまま。長のしなやかな指が再び杯を取り上げた頃、じっと佇んでいた槐が、どうかすると聞き取れぬほどの、僅かに震えた声で言った。
「……恩に着る」
長は後ろ姿のままの槐を見やると、静かに微笑した。
「はい」
極楽浄土の空の色もかくやの、淡く虹の光彩を帯びる終の涯の空の下。
のびやかに舞う大きめの白い鳥が二羽、優雅な翼を空の光にきらめかせ、二人の遙か頭上を横切っていった。
◇
ざぁん、と、穏やかに広がる海が波音を立てる。
つがいらしき白い鳥の翼が、空の高いところで陽光を反射している。それをなんとはなしに見上げながら、虚ノ浜と呼ばれる浜辺を、夜光と葵はゆっくりと歩いていた。
長の小御殿から辞した後、二人は最玉楼の屋形車を借り、ここまで足を運んだ。どちらからともなく、もう一度ゆっくり終の涯の海を眺めておきたいと、意見が合ったのだ。
終の涯の海は、夏でも少し紺碧が深くなる程度で、いつも柔らかな色をしている。白い波は穏やかで、その水平線はどこまでも広い。
この浜辺は、夜光と葵にとってはすべてが始まった場所だった。蓬莱から流されてきた葵と、夜光が出会った場所。一度は悲哀の中ですべてが終わり、そして生まれ変わるように再会した場所。
並んで特に何を言うでもなく、のんびりと細かい砂を踏んで歩く。穏やかな沈黙が優しく、凪ぐように心地良かった。
歩きながら、夜光は真っ直ぐな水平線に目を向けた。
ふと思い出し、無意識のうちに白い指が持ち上がって、懐を軽く押さえる。そこには葵の匕首が差し込まれていた。
「そういえば、私……おまえさまの家紋の入った匕首の袋を、ここから流してしまいました」
「匕首の袋?」
訊ねた葵に、夜光は懐から匕首を取り出す。元々は葵の家紋入りの立派な綾錦の袋にしまわれていたそれは、今では夜光の縫った無地の袋におさまっていた。
「此処を離れて、せめて何か一つでも、おまえさまの故郷に還れたらいいと思って。勝手なことをしてしまって申し訳ありません」
そうか、と呟き、葵も水平線の向こうに目をやった。
「謝る必要はない。きっと無事に、向こうに流れ着いたと思う」
遠く境を隔てたその地を透かし見るような葵の横顔を、夜光は匕首を胸元に握ったまま見上げた。
「おまえさま……本当に良いのですか?」
「うん?」
「蓬莱はおまえさまにとっても、あまり穏やかならぬ処でしょう」
「何も思わぬわけではないが。でも正直、おまえには悪いが、心が少し浮き立っている」
葵は困ったように、こめかみのあたりを掻いた。
「生国に戻る気はないし、戻れるとも思っていない。だが、あちらは俺にとって故郷だ。やはり懐かしく思う。ましておまえが一緒であれば、ますます心強い……」
そこまで言って、葵は渋い顔をすると、夜光に頭を下げた。
「すまん。おまえはそれどころじゃないのに、俺一人浮き足立って」
心底すまなそうにしている葵に、夜光はぷっと小さく吹き出した。
「いいえ。少し安心しました。おまえさまにとって、蓬莱はつらいばかりの地ではないのですね」
夜光は葵の手を取った。大きくあたたかく皮膚の硬い葵の手を、匕首ごと、しっとりと白い手で包み込む。
「私も、おまえさまと一緒だと思うと心強いです。本当は、こんなことではいけないとは思うのですが……おまえさまがいると思えば、きっと挫けずにいられます」
夜光の乳白色の髪が、微風になびきながら、明るい陽光を受けてきらきらと白銀を帯びるように煌めく。
それを眩しげに見やってから、葵も夜光の手を握り返した。夜光の手にある匕首に手を添え、何かに想いを巡らせるように目を伏せる。そうして視線を俯けると、はっとするほど葵の睫毛は長く、穏やかな思慮深さを宿す瞳に淡い翳りが落ちた。
「俺も同じだ。こちらに流されてくる以前のことを思うと、帰るのが恐ろしいのも確かにある。向こうに帰れば、俺は自分で思う以上に悩むかもしれない……」
「はい」
「夜光。俺も挫けずにいられるよう、どうか頼む」
互いの指を解いたとき、自然と匕首が葵の手に渡っていた。
夜光は葵の青みがかった瞳を見上げながら、微笑んだ。
「喜びも悲しみも分け合おうと、おまえさまは言って下さいました。二人で生きるとはそういうことなのだと。この先、何があっても共に参りましょう、葵」
「ああ。共に、必ず」
葵も頷き、己が手の中に戻ってきた匕首を見つめた。その指が、匕首を握り締める。結い上げられた朱色の髪が長く柔らかくなびき、光を受けて明るく透けた。
「……俺も元々、鬼子と呼ばれていたが。槐殿の件で、もしかしたら本当に、俺はただの人間では無くなったのかもしれないな」
力の強い夜叉である槐の命の珠を貰い受けた。人の域を超えて寿命が延びたなら、その時点でもう純粋な人間とは言えないだろう。
それ以上に、葵の身に今後何かしらの変化をもたらさないとも言い切れない。他の例を知らないだけに、それについては夜光にも測り知れなかった。
「恐いですか、葵?」
「いや。むしろこんなものか、とな」
あっさりと答え、葵は水平線の向こうに目をやった。
「俺自身は何も変わらない。特別なことは何もない。だがきっと、この姿でむこうに帰れば奇異の目で見られる。鬼から命を分けてもらったと言えば、それこそ気狂いか、化け物扱いされるだろう」
「……そうかもしれませんね」
「人を人でなくするのは、当人ではなく周りだ。妖も、妖と呼ばれるから妖になる。ただそれだけのことなのだと、今は思う。人よりも優しい妖、妖よりも恐ろしい人間など、いくらでもいる……」
問わず語りにぽつりぽつりと呟いた後、葵は夜光に匕首を差し出した。
「夜光。これはやはり、おまえに預かっていてほしい。これを使おうとはもう思わんが、俺を生まれに縛り付けるものだ。見ると、少し苦しくなる」
穏やかなのにどこかしら切ない表情で言う葵から、夜光は匕首を受け取った。いつぞやと同じよう、胸にそっと抱く。
「わかりました。この匕首は、おまえさまの命の片割れであり心そのものだと……ずっと、そう思ってきました。確かにお預かりいたします」
「うん。ありがとう、夜光」
笑った葵に、夜光も微笑んだ。懐に匕首を差し込んでから、葵の手に、重ねるように掌を乗せる。葵の陽に焼けた肌色に、真白い雪のような夜光の手は、まぶしいほどに映えた。
手をつないだまま、また並んで砂浜を歩き出した。
頬に当たり、髪をなびかせる潮風が心地良い。不安も恐れも確かに胸の裡にあるのに、夜光は不思議なほど晴れやかな気持ちで、淡く虹の色彩を帯びた高い空を仰いだ。
「葵。私はこれから、おまえさまと話したいことがたくさんあります」
これから。独りきりではない時間の中で。
「俺もだ。案外俺は、おまえのことを知らないからな。いろいろと話して聞かせてほしい」
「あの、私は自分のことを話すのが、あまり得意ではないので……がんばりますが、どうかその、長い目で見て下さいね」
言いながら気恥ずかしくなって俯いた夜光に、葵はおかしそうに言った。
「俺も、それほど得意なわけじゃないぞ。お互い様だ」
「葵の方が、私よりは随分ましに思えます」
「そうでもない。本音で話す機会が増えたのは、こちらに来てからだしな」
「そうだったのですか?」
「うん。けっこう意外だろう?」
なぜか得意気に言う葵に、夜光もつられて笑み零した。
と、そのとき、不意を突くように葵の唇が優しく夜光の唇にふれた。少し驚き、白い頬をぱっと染めて立ち尽くした夜光に、葵は目の前から覗き込むようにして続けた。
「きっと思うほどには、俺達は互いを知らない。ゆっくりやっていこう。どうやら時間だけは、この先飽きるほどあるようだから」
その言葉に、夜光はふいに、込み上げてきたもので胸がいっぱいになった。あやうく潤みかけた瞳を瞬き、それをごまかすように頷いた。
「はい……」
二人のこの先に、時間だけはある。人と妖の寿命の差を考えることなく、独り取り残されることもなく、二人で一緒に生きてゆける。
そう言えることの、そら恐ろしいほどの幸福。手放しで喜べない部分もあるとはいえ、それがひどくありがたい、ひどく嬉しいと思ってしまうことに嘘はつけなかった。
葵が夜光の手を取り直した。
「そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、皆が心配する」
少し零れてしまった涙を指で拭いながら、はい、と夜光も素直に頷いた。
出立までの間、この終の涯の光景をできるだけ胸にとどめたい。けれど、最玉楼で過ごせるあと残り僅かな時間も大事にしたい。
今こうしていられる奇跡を思い、ここに到らせてくれた多くの尊い愛情を思い、夜光は祈るような気持ちで、最後にもう一度、優しい色の海の果てを仰いだ。
独りではもう生きていけない。だがそれが、沁み渡るように、どこか誇らしく嬉しい。
心の底から滾々と湧き上がってくる想いに、夜光はそっと瞼を閉じた。
──私は、幸せだ。
二人で並び、共に柔らかな白い砂を踏んで、ゆっくりと歩いてゆく。
二人分の足跡が伸びる砂浜の上、虹色を帯びる空はどこまでも穏やかに、遠い異界の彼方まで続くように、高く晴れ渡っていた。
(了)