山近くの畑一帯が何者かにひどく荒されてしまった、という一件については、さもありなん、里で大騒ぎになった。
幸い半分以上の畑では収穫を終えていたが、残りの畑は葉の一枚、茎の一本まで無惨に荒されており、これから実るぶんもあわせて、到底まともな収穫など望めないありさまだった。
「なんだろうな、こいつは。野盗……いや、どうも人間じゃねぇ気がするぞ。獣の群れの仕業か?」
荒された畑の様子を里の者達と共に検分しながら、天休斎は眉根を寄せた。
里からは比較的距離があり、見張りの目が届きにくかったのは確かだが、これだけの規模の畑から短時間で収穫物を根こそぎにしていくなど、簡単なことではない。
実りばかりでなく、茎や葉までろくに残っていないのもおかしな話だ。残骸の様子から、飢えのままに手当たり次第齧り付いたようにも見えた。
「しかし、それにしてはそれらしい足跡が無ぇなあ」
里の者達も首をひねった。獣とおぼしき足跡は無いが、いっそう奇妙なのは、畑の土のあちらこちらに大きな杭でも打ち込んで掘り返したような跡があることだ。
おぉい、と呼ばれ、他の場所で検分していた者達の方へ足を向けた天休斎は、ますます眉間を寄せることになった。そのあたりには、枯れた松葉にも似た細長い何かが、束になって散っていた。それは暗褐色とも灰色ともつかない色合いをしていた。
「なんだね、こいつぁ。獣の毛かい?」
「だと思います。でっけぇ野犬か、猪か。さもなければ何だ。熊ですかねえ?」
「よしとくれ。こんな針金みたいな剛毛が生えた熊なんざ、想像したくもねぇよ」
そんな具合で犯人の手がかりらしい手がかりもなく、おおかた冬支度のために食い溜めしている熊か何かの仕業だろう、ということになった。
荒された畑は、また人手と時間をかけて整え直されることになり、順調に収穫と冬支度を進めていた里の中に、このときばかりは徒労と落胆の溜め息が満ちた。
自警団の稽古は一時中止となり、翌日には葵も荒された畑の片付けに駆り出されていった。
食い溜めをしている野の獣の仕業であれば、また人里に降りてくる可能性もある。自警団を中心に里全体があたりの様子に注意深くなり、収穫祭を控えて浮き立っていた里には、いささか緊張をはらんだ空気が漂っていた。
毎日賑やかだった稽古場が閉まってしまうと、広い屋敷の中がひときわ静かに感じられる。夜光がそのことに一抹の物寂しさを覚えながら、一通りの手伝い仕事を終えて部屋で休んでいたところに、ひょこりと天休斎が顔を出した。
「すっかり葵殿をこっちに借り出すことになっちまって。すまないねぇ、夜光さん」
煮出した茶の入った土瓶を自ら持って現われた天休斎は、盆の上で二人分の湯飲みに茶を注ぎながら言った。
「いやさ。葵殿がこれまた、えらく気兼ねなく引き受けてくれるもんでなぁ。ついつい俺たちも頼っちまう。なんだろうな、あの若君は。育ちが良いことだけは間違いないだろうが」
「そうですね。私もあまり、詳しくは」
相変わらず味はあまりしないが、爽やかで独特の香りがする茶を一口含みながら、夜光は言葉少なに返事をした。
「ふぅん。ま、ともかく、里の様子が落ち着いたらきちんと礼をさせてもらうよ。葵殿のおかげで、皆相当助かっている」
座り直してふうと大きく息を吐き、すっかり寛いでいる様子の天休斎に、夜光は小首をかしげた。
「あの。それで、ご用件は?」
「んん?」
茶を飲みながら天休斎は目をぱちくりさせ、かと思うとにんまりと笑った。
「特になんにも。いや、昨日からの騒ぎでちいと疲れちまったもんでさ、夜光さんに癒されに来たんだよ」
「はあ」
「美人は見てると癒やされるよねぇ。夜光さん、いっそもうずっとここで暮らさないかい?」
「ありがたいお言葉ですが、私どもにも旅の目的がありますゆえ」
天休斎が本気か冗談なのかはさておき、そこに下卑た下心といったものは一切感じられず、夜光もつい気軽く受け答える。調子が良いだけに底意は伺いにくい相手ではあるのだが、天休斎の醸し出す軽妙な空気にふれているのは、なかなか心楽しかった。
「まあ、そうさなあ。残念だが仕方ない。春までの短い間とはいえ、麗しき心の癒やしと、心強い助っ人殿がいてくれるだけでも感謝しよう」
まんざら冗談でもなさそうに頷いている天休斎に、ふと夜光は気になったことを訊ねてみた。
「確かに葵は頼りになるとは思いますが……そもそもここには、郎党や下人という方々はいらっしゃらないのですか?」
「いるにはいるが、息子どもの領地のほうに出払ってるな」
脇息を引き寄せて凭れながら、天休斎は答えた。
「この里の辺りは、耶麻姿家の直轄領として長くてな。治安もよく行き届いているから、周辺を固める息子どものほうにそのあたりは割いている。自警団はその埋め合わせに、俺が呼びかけて作ったのさ」
だから屋敷内にも物々しい雰囲気の郎党などが居ないのかと、夜光は納得した。
いや、そもそも天休斎が「お屋形様」と呼ばれる身分であることすら、うっかり失念してしまうことがある。なにしろ本人がまったく仰々しくも尊大でも無いし、自ら気軽に動き回り、使用人達や里の者達との距離感も近い。何より天休斎自身が「お屋形様」と呼ばれることを好んでいない。
昨日も畑が荒らされていると聞くなり、天休斎はすぐさま現地に出かけていって、そこから指揮を執っていた。態度こそおどけているようだが、そこも含めて里の人々が天休斎を敬愛していることは、様々な場面で伝わってきた。
自分たちが人々に驚くほどすんなり受け入れられたのも、「天休斎が信頼している客人」であるからこそなのだと、今では夜光も理解している。穏やかで豊かで、良い里だ、と思う。今では素直に「春までありがたく世話になろう」と、夜光も思えるようになっていた。
だが里に馴染むにつれ、里のことが他人事ではなくなってゆく。先日の騒ぎは根本的に解決したわけではなく、何ものが畑を荒らしたのか、また来るのではないのかということは、夜光にも気懸かりだった。
「先日畑を荒らしたものは、野盗などではなさそうなのですか?」
葵も不確かなことは、あまり軽々しく口にするほうではない。昨日は結局何があってどうなったのか、夜光は天休斎に訊ねてみることにした。
「ああ、うん。あれはどうも、人間の仕業じゃねぇなあ。大型の獣だとは思う。見たこともない毛が落ちていたのと、それらしい足跡が無かったのが気にはなるがねえ」
「そうなのですか」
「山から降りてきたようだから、山にある神社の様子も心配さね。狼煙も何もないから、大事無いとは思うんだが。明日にでもちょっと様子を見に行ってみようと思ってるよ」
──山にある神社?
何気なく口にされたその言葉に、夜光は引っかかった。山とは夜光たちも越えてきた、あの山のことだろうか。
「あの。山には神社があるのですか?」
「おうよ。そう大仰なものじゃあないが、『山姿神社』って神社がある。このあたり一帯の土地神でもある山神様を、昔から祀っていてな。耶麻姿家は今でこそ宮司の家系と分かれたが、もともとは山を祀る司祭の家系なのさ」
縁側から見える山の稜線を見やりながら、天休斎が言った。
「耶麻姿の『耶麻』は宛字さね。本来は神社と同じ、『山の姿』で山姿と書く。神様と同じじゃ畏れ多いってんで、ご先祖様がこっちの家は『耶麻姿』に改めたのさ。里の家の方にはあまり神通力に長けた者は生まれないんだが、その分こうして里からお社を護り支える役目がある。ま、耶麻姿家が栄えているのも、先祖代々ありたがい山神様をきっちりお祀りし続けているおかげってわけさね」
天休斎の話を聞きながら、ますます夜光は困惑していた。それでは山の中にあるという「山姿神社」には今も宮司がいて、山神を祀るために機能している、ということになる。
「あの、天休斎様。それはまことでございますか? 昔話というわけではないのですね?」
「ん? なんだい夜光さん、藪から棒に」
「私どもは、その神社があるという山を通ってここに参りました。ですがあの山には、神の御座の気配が無かった……山神様の気配が感じられなかったのです」
「へ?」
天休斎が目を丸くしたが、夜光はかまわずに続けた。
「それどころか、申し上げにくいのですが、あそこの山の気は明らかに不穏でした。それにあてられたのか、妖の数も多かった。おそれながら、山神様の鎮守がまともに働いている状態とは、とても思えません」
夜光の話を聞くうちに、天休斎の顔付きが真面目なものになっていく。天休斎は顎に手を当てて考え込んだ。
「とすると、山姿神社に何かあったってわけかい? しかしな、ぼんくらとはいえ、俺も多少なりとも視たり聴いたりするたちだ。神社に何かあったなら、気付かないわけが……」
意識を凝らすように呟いた天休斎が、はっと息を飲んだ。普段は鷹揚に笑っているように見えるほど細い目を見開くと、山を振り仰ぐ。
「くそ、しまった。まんまとしてやられた」
「天休斎様?」
「どうやら、なまじ視える聴こえるを逆手に取られちまったようだよ、夜光さん。なるほどな。こいつぁ確かに、あからさまに様子がおかしいや」
言いながら天休斎は立ち上がり、もう歩き出そうとしている。慌てて夜光は、それを追って立ち上がった。
「あの、天休斎様。どうかなさったのですか?」
「神社の気配が、普段となんら変わらんように偽装されている。とくに注意してみなけりゃ分からん程度にな」
「と、いうのは……?」
「神社の様子がおかしい。いや、一見おかしくないように『場』を閉ざす細工がされている、というのかな。すまんが夜光さん、俺は今から山に行ってくる。山神様の気配が無かったというなら、少々まずいことが起きているのかもしれん」
いつになく厳しい表情と声音で言う天休斎に、咄嗟に夜光は口を開いていた。
「それでしたら、私も共にまいります。人ならぬものの領分であることが起きているなら、多少なりともお役に立てるかもしれません」
天休斎はそれから半刻もしないうちに、数人の里の者達と共に神社に出発した。
表向きは単に「昨日の今日だから、神社の様子が心配だ。ついでに秋の実りでも宮司さんに届けてやろう」という程度の話になっている。もともと山姿神社には、十日に一度程度の割合で里から食べ物などを届けることが習慣になっており、それを少し繰り上げようという天休斎に、とりたてて誰も不審は抱かなかったようだった。
「こいつは……」
里を出て道祖神の像の前を通り過ぎ、山が近付くにつれて、天休斎の普段は安穏とした顔付きが引き締められていった。
「天休斎様。何か」
白い被衣を目深にかぶった夜光が、その傍らから伺う声をかける。
普段はあまり屋敷から出ない夜光だが、「せっかくなのでこの機会に、自分も土地の神様にご挨拶をしたい」と皆に言って同行してきた。里の人々からは「旅の人が感心なことだ」と、おおむね好意的に受けとめられたようだ。
天休斎は塗笠の下で細い目をいっそう眇め、進む道の先を見た。
「確かに妙な空気だ。こうして視ていても、えらく道の先が暗い。どんより濁った泥水のようさな」
何も知らない者達を怯えさせまいと小声で言い、天休斎は舌打ちした。
「こんなありさまに気付かなかったとは、不甲斐ないことこの上なしだ。まったく、歳はとりたくないもんだねぇ」
「いえ。私も正直、ここまでとは」
被衣の下で、夜光も眉をひそめた。
以前通ってきたときよりも、山全体の「氣」が明らかに澱んでいる。精巧に山の中だけに封じ込められているようで、里の方からはここまでだとは分からなかった。
もともと蓬莱の「氣」はひどく不安定で、乱れや濁りがひどいときは、終の涯育ちの夜光には瘴気のように感じられることもある。それらを浴びると、とくに視たり聴いたりする力を持たない者ですら、胸が悪くなったり体調に害を及ぼされることがある。
夜光はそれらに浸蝕されないよう、また妖などに襲われないように、自分達の周りにタマフリの鈴による護りを広げていた。天休斎も何らかの護りを張り巡らせているのだろう、おかげで何事もなく、目指す「山姿神社」に到着することができた。
「山姿神社」と扁額を掲げられた、あまり大きくはない石造りの鳥居が山路の脇に現われ、それをくぐるとすぐに古びた石段と参道がある。さほど長くもないそこを進みながら、夜光は眉根を寄せていた。
やはり、この先に「神」と呼ばれるものが居るとは思えない。妖の類いが居る様子は無いが、何かどろりと澱んだ不浄の気配があった。
柔らかな秋の陽光が落ちかかる、一見穏やかな参道を行く途中で、はっと天休斎が息を飲んだ。物言わず境内に向かって駆け出したその背に、「あれ。どうなすったね」「天休斎さまぁ?」と、山の変事に気付かない者達が呑気な声を投げた。
夜光も天休斎を追って、小走りに境内へと急いだ。宮司の生活に関わるいくつかの建物と、小規模ながらもなかなか立派な御社殿。その本殿の扉が、大きく開け放たれている。
「宗衡さん!」
天休斎が叫び、扉を開け放たれた本殿に駆け込んでゆくのが見えた。
どろりとした澱みの中心が、あの本殿の内にある。夜光も天休斎の後に続いて本殿への短い階を駆け上がりながら、扉が「開いている」のではなく「内側から破られている」のに気付いた。と同時に、ひどく生臭く鉄臭いにおいを嗅ぐ。
「う……」
一歩踏み込んだ先は、屋内で嵐でも吹き荒れたのかと思うようなありさまだった。祭殿全体が滅茶苦茶に荒らされ、祭壇も跡形もないほど破壊されて、祀られていたのだろう鏡や供物の残骸が散らばっている。
それらの中に、誰かが倒れ伏していた。装束からして、ここの宮司のようだ。その傍らに、天休斎が屈み込んでいた。
近くに足を運ぶ前から、倒れ伏した人物の息がとうに絶えていることは明白だった。なぜなら天休斎の前にその人物の上半身はあるが、下半身は離れた場所に転がっていたからだ。
祭壇や床板を染め上げ、柱や天井にまで飛び散っている血は、もうほぼ乾いていた。それでもあたりに満ちる生臭さはむせかえるようで、時間が経っているせいか腐臭もし始めている。夜光は思わず、着物の袖で口許を覆った。
「その御方は……?」
無惨な遺体の前に膝を落としたままの天休斎に、夜光は近付いていきながら訊ねた。
「宗衡さん……山姿宗衡さんだ。この山姿神社の宮司を、長いこと務めて下さっていた」
答える天休斎の声は、衝撃を隠せずにはいたが、意外にしっかりしていた。
恐ろしいものでも見たかのように見開かれたままの遺体の目を、天休斎はそっと閉じる。身につけていた羽織を脱いで、その無惨な姿を隠すようにかけてやると、天休斎は立ち上がった。
そこに、小走りに追いついてきた者達の賑やかな声が聞こえてきた。
「天休斎さまぁ。急に駆け出して、いったいどうなすったね」
「宮司様、こんにちはあ。いろいろ持ってきたわよぉ」
「あら? 何か、扉が壊れてない?」
はっと、夜光は入り口を見返った。幸いまだ、他の者達は祭殿の中にまでは到っていない。
「いけません。中に入らないで」
入り口に駆け戻った夜光は、中に入って来ようとしていた人々の前に立ち、屋内の様子を遮るようにした。
「え、なあに?」「どうしたね?」
皆きょとんと、夜光を見返す。夜光が咄嗟に答えあぐねていると、天休斎も足を運んできた。
「すまないが、ちいと誰か、里までひとっ走りしてくれないかい」
天休斎は背筋を伸ばし、普段通りの口調を装ってはいたが、あからさまにすぐれない顔色と硬い表情を、皆が見落とすはずがなかった。
「里まで? いったい中で何がありなすったね、天休斎様」
「宗衡さんが亡くなっている。中がえらく荒らされているから、片付けるにも人手が必要だ」
「ええッ?」と、皆異口同音に声を上げて顔色を変えた。
「な、亡くなってるって、いったいどうして」
「荒らされてるって、そりゃどういうことだい。物盗りの類いかい?」
天休斎は人々の動揺を抑えるように、ことさら静かに続けた。
「分からない。ひとまず俺一人で検分するから、まだ誰もこの中には入らないでおくれ。荒らしたものの手がかりが残っているかもしれないから」
「は……はい」
「お、俺、里までいってきます!」
やっと我に返った一人が、叫ぶように言って駆け出してゆく。他の者達は天休斎の指示通り、御社殿から離れた場所で、恐ろしげに身を寄せ合った。
夜光もあえて立ち入ることはせず、皆からは少し離れた場所に控えた。
穏やかな陽光が降りそそぐ境内の様子は、見かけだけなら静かで明るい。それなのに、ひどく侘しく不吉な、禍々しい場所にすり替わってしまったように見える。
あたりの様子に視線を巡らせていた夜光の顔のそばを、ひらりひらりと落ち葉が舞っていった。何気なく目で追い、石畳の上に落ちた葉を見る。
被衣の下で、夜光は小さく目を見開いた。白い指を伸ばし、落ち葉を拾い上げてまじまじと見つめる。
「腐ってる……」
緑から色は変わっているが、これは紅葉しているのではない。濁ったような茶褐色に変じた葉は、ぼろぼろの葉脈もあらわに朽ち果てていた。
あたりの落ち葉や、木々に目を巡らせる。よく見ればどの葉もどの樹木も、確かに色は変わっているが、それはいずれも鮮やかな紅葉の色彩とは程遠い、くすみ濁った色をしていた。
そういえば、と夜光は思い返す。里からこの山に向かって歩いてくるとき、紅葉があまり美しくないな、とは思ったのだ。
ざわり、と、風に煽られたあたりの木々が揺れた。うっすらと這い上がってきた悪寒に、夜光は知らず、己の腕をさすっていた。