遣らずの里 (十)

 今の夜光を追っていっても、おそらくまともな会話にはならない。
 明日の勤めもあったし、何よりひどく疲れていた。重い身体を引きずるように寝床につくと、葵は無理やりに目を瞑った。
 疲れているのに、頭の芯が冴えてしまって寝付けない。それでもようやく眠りに落ちかけては、夜光がふいと何処かにいってしまう夢を断片的に見て、何度も飛び起きた。
 そのたびに葵は、嫌な動悸と冷や汗にぞっとしながら頭を抱え込んだ。
「夜光……」
 ──こんなにも夜光は自分のすべてなのだと、今さら思い知る。夜光は特別なのだと分かっていたはずなのに、いつも当然のように隣にいてくれたから、いつの間にかそれが当たり前のようになってしまっていた。
 いつもいつも、自分は大事なときに大事なものを守れない。
 なぜ自分はこんなにも傲慢で、浅はかで、どうしようもない人間なのだろう。これでは夜光が呆れて見放すのも当然だ。自分があまりに情けなく不甲斐なくて、涙が出そうだった。
 結局まんじりともせずにいうるちに、鈍く夜が明けてきてしまった。


 眠れない一夜のうちに、葵はこれからのことを繰り返し何度も考えていた。
 里の窮状も人々の心情も分かるからこそ、少しでも助けになれないかと思ってきたが、自分にとって最も大切なのは夜光だ。この里を気の毒だとは思うが、夜光の気持ちを犠牲にしてまで尽くすべきなのかと考えると、それは違う。
 たとえ人でなしと言われても、無責任だと罵られても、もうこれ以上はこの里に関われない。天休斎にも申し訳なくは思うが、何もかも都合良く助けられるほどの力など、自分には無い。
 それに気付かず思い上がっていたことを思うと、心底から溜め息が出た。
 全身がだるくて気分も沈み、正直とても自警団の勤めに出る気分になれなかった。しかし悩んだ末に、今日までは顔を出すことにした。
 あらぬ噂も立っていることだし、なんら後ろめたいことはないと示すためにも、辞めるのならばきちんと断ってからにしたい。そう思い、寝ていないぶん食べなければとなんとか朝餉を詰め込み、身支度を整える。
 そろそろ出ようというところに、すうと音も無く縁側の障子が開いた。
「夜光……」
 そこに夜光が立っていた。その白い顔は無表情だったが、それでも戻って来てくれた、顔を見せてくれたと思うと、安堵のあまり葵は声が震えそうになった。
 夜光はそんな葵を一瞥もせず、自分の手荷物と被衣を取りあげると、そのまま襖で仕切られた隣の部屋に向かっていった。
「私はこちらのお部屋を使わせていただくことにしました。おまえさまは、お好きなようになさいませ。私は何も言いません」
 振り向きもせず突き放した声音で言い置くと、夜光は襖を開いてその向こうに行ってしまった。ぴしゃり、と後ろ手に襖が閉められる。
 咄嗟に葵は、夜光の消えた襖に向かっていた。開こうとして、躊躇い、その手を下ろす。
 夜光は葵が近付いたのが分かったのか、この襖のすぐ向こうに佇んだまま、動いた気配は無い。葵は夜光の背のあたりだろうかと思われるところに、ただ手を触れさせた。
「夜光……すまない」
 夜光の返事は無い。そうすぐに許してもらえるとも思わず、だがどうしてもこれだけは言わなければと、葵は続けた。
「俺の考えは甘いのだと思う。でも、これだけは信じてくれ。おまえを苦しめるものがいるなら、そこにどんな理由があろうと、俺はそいつを許さない」
 こんなことを言っている自分こそが夜光を傷つけているのじゃないかと、内心で己を毒づき、情けなさにあやうく泣き笑いしそうになった。ぐっとこらえて、出来る限り穏やかな声で続ける。
「すまないが、今日だけは勤めにいってくる。もう自警団は辞めて、この里から出て行くと伝えてくるよ。それじゃあ、出かけてくる」
 葵は襖の前を離れ、部屋を出て行った。その間夜光の気配は、襖の向こうから動かなかった。


 葵が詰め所に行くと、皆出払っているのだろう、そこには誰もいなかった。
 今日一日に割り当てられた役目を、割り振り札から確認して、里に出る。
 見張りや巡視をしていれば、自警団の誰かしらと顔を合わせるだろう。そのときにもう自警団を辞めると話し、他の皆にも伝えてほしいと頼めば良い。あとは、天休斎にもあらためて話をしておけば充分だろう。
 見回りのため歩いていると、心が挫けてしまったせいか、ことのほか人々の刺すような視線や、遠巻きにこちらを見て低く囁き合う様子がこたえた。いつもなら人に会えば会釈くらいはしていたが、今日はその気力も無い。
 誰とも目を合わせないように、視線を俯けがちに歩く。そんなふうにしていると、気分もいっそう打ち沈んでゆくようだった。
 その地面しか見えない視界に、ふいに小さな人影が差し込んできた。
柚太ゆうた
 それはあの、里に入った日に出会った元気な少年だった。稽古場にも足繁く通ってきた柚太は、葵によく懐いてくれて、せがまれて武術の簡単な手ほどきをしたこともある。
 稽古が無くなってしまってからは、柚太を始め、里の子供達に会う機会も無くなってしまっていた。久し振りに会えて、葵は頬が和らいだが、柚太は何か思い詰めたような、表情にぎゅっと力を込めるような、怒ったような顔つきをして立ち尽くしていた。
「……兄ちゃん」
 やっとのように呼びかけてきた柚太の声は、やはり何かをこらえるように固かった。
 だがそこに、葵を遠ざける拒否の気配は感じられない。葵は柚太に歩み寄ると、その正面に腰を屈めた。
「どうした。俺に何か用事か?」
 優しく問いかけると、柚太はうつむいた。ふいにこらえきれなくなったように、その黒眼の大きな瞳に透明な涙が盛り上がる。ひくっ、と細い喉がしゃくりあげた。
「……ごめん、兄ちゃん。ごめん」
「柚太?」
「兄ちゃんが、山から、変なもんをつれてきたって、みんな言うんだ。みんなも、とうちゃんも、かあちゃんも。だから、兄ちゃんに近付いちゃ、いけないって」
 しゃくりあげながら、つっかえつっかえに柚太は言う。ぼろぼろとこぼれる涙を、小さな拳で拭いながら。
 葵は僅かに、目を瞠る。しんしんと胸の中に、虚しいような寂しいような痛みが沁みて広がってゆく。
「そうか……」
 子供達が自分に寄ってこなくなったのは、親達がそう言って止めていたからなのか。考えてみれば当たり前のことだ。
 何も言えないでいる葵に、柚太は拳で懸命に拭いながら、言葉を続けた。
「でも、そんなの、ちがうだろ。にいちゃんは、みんなを助けて、くれてるのに。なんにも悪いこと、してないのにさ」
 打たれたように、葵は目の前で泣いている少年を見返した。
 こんな小さな子供が、分かってくれていた。だがそれと同時に、こんな子供をこんなふうに泣かせてしまったことに胸が痛んだ。
「柚太……」
「兄ちゃん、ごめん。ごめんな。みんな、おかしいんだよ。さんざん、若先生とか、ちやほやしておいてさ。なんで……」
「──柚太ッ!」
 そのとき尖った声が割って入って、びくっ、と柚太の小さな身体が震えた。
 柚太の母親が、向こうから恐ろしい形相で駆け寄ってくるのが見えた。柚太に初めて会ったときを思い起こさせる眺めだった。
 だが柚太は、素早く足下にあった石を拾い上げて握り締めると、母親めがけてその細っこい腕を振り上げた。
「来るな、投げるぞっ!」
 さすがに、それを見た母親が立ち止まる。その柚太の声とこの場の様子に、周りでは人々が何事かと足を止め始めていた。
「柚太、何馬鹿なことしてるのッ。そいつに近付いたら危ないから、駄目だって言ってあるだろう!」
「なんでだよっ。なにが危ないんだよ!」
 母親が叱りつけるのに、負けじと柚太は高く幼い声を張り上げた。幼い少年は母親ばかりでなく、ざわざわと周りに集まりつつあった大人達も、まとめて睨み付ける。
「かあちゃんだけじゃなくてさあ。おまえらみんな、おかしいよっ。若先生が何したっていうんだよ! なんにも悪いことしてないじゃないかっ!」
 真っ直ぐな少年の叫びに、周囲の大人たちがいくらかうろたえたように顔を見合わせた。「何って、そりゃあ……」「なあ、うん」「だって……」等々、いまいち決まり悪そうに頷きあう。
「こら、柚太ッ! 何馬鹿を言ってるんだい、あんたにゃ分かりゃしないよ! いいから早く、こっちにおいで!」
 なおも声を荒げる母親に、柚太が石を握り締めた手を振り上げたまま言い返した。
「かあちゃんだってさあ! あんなにこの間まで、うれしそうに若先生の話ばっかりしてたじゃないかっ。なのにさ、なんで今はダメなんだよ! わけわかんねぇよッ!」
「なっ……」
 母親が言葉に詰まり、その頬にみるみる血が昇る。周囲の人々も、思わず、というようにその様子を振り返り、ますます母親は赤くなった。
 やや呆気にとられて二人の応酬を眺めていた葵は、思わずそこで軽く吹き出してしまった。
 柚太が小さな身体に精一杯の力と怒りを込めて声を張り上げてくれたおかげで、葵の中に重苦しく鬱屈していたものが、清々しいほど吹き飛ばされていた。毒気と余計な力が抜けて、自然と目許が柔らかくなる。
「柚太」
 立ち上がって、声をかけながらその頭に軽くぽんと掌を乗せる。涙目で見上げてきた柚太に、葵は再び腰を屈め、目線の高さを合わせた。
「ありがとう。正直落ち込んでいたから、元気が出たよ」
「兄ちゃん」
「でもな、柚太。お母さんだって、別に間違ってるわけじゃないんだぞ」
 言った葵に、柚太がいかにも不服そうに口をむっと尖らせた。
「だって!」
「お母さんは、一生懸命大事なものを守ろうとしてるだけなんだ。柚太のことが大切だから、間違って何か危ない目に遭わないように。俺は確かに得体が知れないから、警戒されても仕方が無い」
「兄ちゃんは大丈夫だよっ。かあちゃんも、みんなもおかしいんだ!」
「うん。柚太が俺を信じてくれているのは嬉しい」
 懸命な少年に、葵は心から笑いかけた。
「俺を信じられないという人には、俺が信頼してもらえるだけのものを示せなかっただけだ。無理矢理信じろというわけにもいかないからな」
「でも……」
「俺は、柚太が信じてくれただけでいい。だから、柚太」
 柚太の子供らしく瑞々しい瞳を、葵は真っ直ぐに見た。柚太も同じように、葵の青みがかった瞳を恐れ気無く見返す。
 葵は少年の石を握り締めたまだ小さな手を取り、軽く、だがしっかりと握った。
「柚太はそのまま、自分と違うものでも否定しない大人になってくれ。周りに振り回されず、自分の目で見定めてくれ。俺にそうしてくれたように」
「兄ちゃん……」
「それから。俺のためとはいえ、お母さんとの喧嘩はここまでにするんだ。お母さんは、柚太を心から心配してる。柚太が憎くて叱るんじゃない」
 人垣の中でうつむきがちにまだ顔を赤くしていた母親が、はっとしたように顔を上げた。胸を衝かれたような、何か目が醒めたような顔をしている母親を、柚太はじっと観察するように見つめる。それから、頷いた。
「……うん」
 葵は笑い、少年の頭を軽く掻き回すように撫でてやった。
「よし。さすが柚太だ」
「で、でも、わかんないからなっ。やっぱりどうしても、かあちゃんがおかしいって思ったら、俺、絶対謝ったりしないから」
 むうっと眉間に力を入れて言う柚太に、葵は頷いた。
「うん。そのときは、それでいい」
「なあ、兄ちゃん」
「うん?」
「兄ちゃん。もしかして、どこかにいっちゃうの?」
 葵と話すうちに、ある予感を覚えたのだろう。澄んだ瞳でどこか不安そうに問いかけてきた柚太の利発さに、葵は少し驚きながら頷いた。
「……そうだな。春までここで過ごすのは、ちょっと難しくなったかもしれない」
「いやだよ。俺、まだこれから、いっぱい兄ちゃんと遊べると思ってたのに」
 柚太がまた泣きそうな顔になった。葵は少し困り顔で笑った。
「ごめん。出来れば俺もそうしたかった」
「だったらいればいいじゃないか、春までずっと。春までじゃなくて、その先もずっとここにいたらいいじゃないかっ。いやだよ俺」
 ぼろぼろっと、大粒の涙がまた少年の柔らかな頬を零れ落ちる。その泣き顔と声が、里の人々に向けられた不穏な囁きや視線よりもずっと痛みをもって、葵の胸に深く刺さった。
「ごめんな……」
 ただそう言うしか出来ずにいたとき、そこに第三者の声が投げ込まれた。
「んーむ。俺も柚太の意見にわりと賛成だなぁ」
 ざわっと、いつの間にか周囲に出来ていた人垣がざわめく。その人々の間を割ってひょこりと姿を現したのは、天休斎だった。
「天休斎殿」
 柚太の前に屈んでいた葵は、それを見て立ち上がる。柚太も慌てたように、ごしごしと拳で涙を拭った。

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