遣らずの里 (十二)

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 やっと里の入り口が見えてきた頃には、もうだいぶ夕暮れも深まっていた。西の空だけが茜に染まり、赤紫の入り交じる頭上には、ひときわ明るい星々が煌めき出している。東の空は、すっかり深い藍色に変わっていた。
 息を切らして、夜光はいったんそこで足を止めた。ここからでも、明らかに里の様子がおかしいのが見て取れた。
 夕暮れの空に向かって、何本も黒煙がたなびいている。夕餉の支度をする頃合いでもあるし、そうでなくとも火種が絶やされることはないから、何かの拍子に火が出たのだろう。
 山から里へとつながる路が、路の形をなさないほど、ひどく荒れていた。土があちらこちらでめくれ返って、太い杭でも打ち込んで掘り返したかのような跡が、延々と続いている。所々、何か大きく重い袋でも引きずったような跡もついている。それは山の方から、ずっと続いてきているようだった。
「なんだろう……?」
 まるで何か、異形の大きなものが通っていった痕のようだ。
 これまでの襲撃とは、明らかに様子が違う。これまでは現場が局地的に荒れていることはあっても、これほどあからさまな痕跡は残されていなかった。
 山神と思われる「何か」が通った痕跡を追う形で、夜光も里に入った。
 入ってすぐのあたりに、動く人影は無かった。
 道沿いにある小屋や住居のいくつかは、力任せに大木の幹でも叩き付けたかのような格好でひしゃげ、あるいは潰れて倒壊していた。中の何棟かは炎を上げ、様々なものの焼ける異臭が漂っていた。
 それらの瓦礫の下に、人形じみた人の手や足の先がのぞいている。道端にも動かない人間が何人か倒れており、さらには力任せに引きちぎられたような身体の一部が、あちらこちらに散乱していた。
「これは……」
 息を飲んで立ち尽くした。思った以上にひどい有り様だ。
 このあたりには、異形のものの姿は無い。惨状は「何か」が通った痕を示すように、里の奥に続いていた。その方角から、背筋をぞわりと撫であげられるような濁った妖気が感じられた。
 鈴の音は、警鐘のように鳴り止まない。間違い無く、「くだんのもの」がここに来ている。
 心の臓が、駆け続けてきたせいばかりでなく、嫌な感触でどきりどきりと脈打っていた。
 遅かったのだろうか。天休斎や葵は。まさか、もう。
 居ても立っても居られず、夜光は妖気の漂ってくる方向へ足を向けた。
「件のもの」の通ったあとは、ことごとく家屋が押し潰され、よくても半壊していた。
 そこらじゅうに日用品や投げ出された荷物が散乱しているのが、人々が見舞われた恐怖と混乱のほどを物語っている。それらの中に、明らかにもう息の無い人間達の姿が、いくつも横たわっていた。
 身体の一部が無い者。身体が半分ないし一部分しか無い者。いずれも五体が満足に残ったむくろは無い。
 行く手に明かりが見えた。どうやら路を広げた広場になっているあたりで、松明か篝火が大量に焚かれているようだ。
 殺伐とし、騒然とした空気が伝わってくる。飛び交う怒号や悲鳴が聞こえ、逃げ惑う人々が見える。夜光はためらわず、そこに駆け込んだ。
「天休斎様!」
 真っ先に目に付いたその姿に、夜光は思わず高く呼ばわっていた。天休斎も振り返り、そして目を見開いて叫んだ。
「夜光さん、駄目だ!」
 え、と一瞬足を止めた夜光は、背後、それも高い位置から、何かが強く見下ろしてくる視線を感じた。ぶわっと、全身の毛が総毛立った。
 爪先から強烈な悪寒が駆け上がり、夜光は考えるよりも先に、地面に転がるように伏せていた。その背すれすれを、白い被衣をかすめて、振り下ろされた何かが恐ろしい風圧を残して通過していった。
 ──いったい、何。
 身を起こしながら、夜光は背後を振り仰いだ。
 潰れかけた家屋の上に半ば乗り上げる格好で、闇の塊のような巨大なモノがいた。己が押し潰している家屋よりも尚大きな、丸く重たげな胴体に、ざわざわと蠢く何本もの長い節足。幾つもの眼が、闇の中で妖しい鬼火のように真っ赤に耀いていた。
「……蜘蛛……?」
 かたちはそれに似ている。恐ろしく巨大な、明らかに自然界のものではない蜘蛛だ。しかし墨色の靄にでも覆われたように全体がゆらゆらと揺らいで、目を凝らしてもはっきりとした輪郭が掴み切れない。
 その、口とおぼしきところが蠢いている。噛み切ったばかりなのだろう、哀れな誰かの脚がそこからは突き出していた。ぐちゃぐちゃごきり、と耳を塞ぎたくなるような湿った音がして、そのモノは大きなあぎとを動かし、それを難なく飲み込んでしまった。
 さすがに、夜光は顔をひきつらせた。
 ──これが、山姿の神……「山神」だったもの?
 そのとき、荷物を抱えた女が近くの民家から現われた。離れた屋根の上にいる巨大な闇蜘蛛を見て、ヒッ、と一瞬立ち竦みながらも、なんとか逃げ出そうと走り始める。
 その背中を、しなやかな鞭さながらに伸びた蜘蛛の脚が、一瞬のうちに串刺しにして捕えていた。広場中から、どよめきと悲鳴が上がった。
 蜘蛛の脚先は鉤爪のようになっており、一度捕えた獲物は逃がさないようになっていた。女の手から荷物が転がり落ち、ぐええぇ、と、潰された蛙のような声が上がった。
 女は無慈悲に身体を持ち上げられると、力無くでたらめに手脚をばたつかせた。それらにまったく構わず、巨大な闇蜘蛛は女を口に運んで、無造作に顎を噛み合わせた。
 聞くに堪えないくぐもった断末魔と、生きたまま身体を咀嚼され、骨ごと噛み潰される音が響く。それを見聞きしてしまった者達の何人かがその場で嘔吐し、腰が砕けたようにへたり込んだ。そうはならなかった者達も蒼白となり、もはや誰もの気力が挫けてしまったようだった。
 闇蜘蛛が女を喰っている隙に、夜光はなんとか立ち上がり、天休斎のもとによろめきながらも辿り着いた。
「天休斎様……」
「夜光さん。無事で良かった」
 目を見開いて惨状を凝視していた天休斎も、完全に血の気が引き、夜光を支えたその手が小刻みに震えていた。
 夜光は天休斎を見上げ、きっぱりと告げた。
「天休斎様、あれはいけません。あれはもう、誰の手にも負えない。どうか早くお逃げください」
 天休斎は、ひきつった笑みともつかぬ笑みに口許を歪ませた。
「そのようだねぇ。こいつぁちょいと、どうにもならねぇや」
「ですから、どうかお早く。あれには区別も慈悲もありません」
「そうしたいのは山々なんだが。しかしねぇ、夜光さん。俺はこれでも、皆の大将なんだよ」
 天休斎は懐に手を差し込み、何を思ったのか、そこにしまわれていた龍笛を取り出した。震えを止めたいように、ぐっとそれを握り締めると、大きく深呼吸する。そして、やおら声を張り上げた。
「ほらほら、おまえたち! 何をへたってるんだい、さっさと立って逃げるんだよ! 荷物なんざ置いていくんだ。生きてりゃなんとでもならぁな!」
 その一喝に、そのあたりで震えて動けなくなっていた者達が反応した。はっと顔を上げて、皆が天休斎を見返る。
 だがその声に反応したのは、闇蜘蛛も同じだった。見上げるような巨躯が蠢き、潰れかけた家屋の上からぞろりと地面に降りてくる。何を考えているのかまったく分からない複数の赤い眼が天休斎をとらえ、のそりと動き出した。
「天休斎様……!」
 悲鳴を上げた夜光には見向きもせず、天休斎は闇蜘蛛を見据えている。そしておもむろに龍笛を構えると、その場に佇んだまま、ゆっくりと吹き始めた。
 ──天を舞う迦陵頻伽さえ羽休めして聞き惚れる
 そう称される妙なる音色が、天休斎の笛から流れ出した。
 それはこんな状況でさえ、鮮やかに人々の耳を、胸を打った。闇を貫き雄大に天を駆け巡るかのような、地に舞い降りて花びらと共に癒やしと祝福を与えるような、春夏秋冬の美しきを夢幻の中に紡ぐ音色。耳にしたもののすべての魂を揺さぶる、「神」の宿る響き。
 夜光は息を飲んだ。天休斎に狙いを定め、今にもその恐ろしい鉤爪を振りかぶろうとしていた闇蜘蛛さえも、その脚をそろそろと下ろすのを見たのだ。
 ふと気付くと、タマフリの鈴の玉音も止んでいた。
 闇蜘蛛はその場に身を沈め、まるで笛の音に聞き惚れるように動かなくなった。赤い眼は明滅していたが、それは攻撃的なものではないように感じられた。
 それを見て、力と気力を取り戻した人々が、互いに互いを支えながらそろそろと立ち上がり、動き出す。それにも、闇蜘蛛は反応しなかった。
 今なら無事に逃げられる、と判断した人々が、一斉に逃げ始めた。
 途中で天休斎が、促すように夜光を見た。逃げろ、と言われているのは分かったが、天休斎を置いて逃げられるわけがなかった。
 ただ首を振った夜光に、天休斎は困ったような顔をしたが、そのまま笛を吹き続けた。
 付近から人々の姿がすっかり消えた頃、天休斎は演奏を止め、笛を下ろした。ふう、と息をつきながらも笑う。
「やれやれ。やってみるもんだねぇ」
「天休斎様……」
「いやさ。俺の笛の音には、いろいろなモノを惹き寄せると共に鎮める力があると、昔宗衡さんに言われたことがあったのさ。しかし、まさかここまでうまくいくとはねぇ」
 だが二人がゆっくり言葉を交わす間も無く、闇蜘蛛が反応した。それまで微塵も動かずにいた節足が蠢き、複眼が赤く輝いて天休斎を見る。
 りーん……と、再びタマフリの鈴が鳴り始める。のそりと身を起き上がらせた闇蜘蛛を見て、天休斎が後ずさった。
「こりゃあまずいな。まさか、ずっと吹いてなけりゃいけないってことかい?」
「天休斎様、無理です。吹きながら取れるだけ距離を取って、逃げましょう」
 必死に促す夜光に、天休斎はへなりと笑った。
「いやあ。あの動きを見ただろう。無理だよ、それは」
「でも」
「夜光さんもお逃げなさい。俺が吹いているうちに」
「それでは、天休斎様が逃げられません」
「そういうことになるねぇ」
 天休斎は今にも脚を振りかぶろうとしていた闇蜘蛛に視線を戻し、覚悟を決めたように見据えた。龍笛を構えて、半ば自身を奮い立たせるように、口の端だけで笑う。
「残念だが、仕方が無い。領民を守るのも、お館様の役目ってもんさ」
 そして再び流れ出した龍笛の響きに、夜光は茫然とした。
「できません……」
 どうして、天休斎を置いて逃げられるだろう。この人は、耶麻姿の里に必要な人だ。天休斎がいなくなってしまったら、人々はこの後どうやって里を立て直すというのだろう。夜光自身は本音では里の人々などどうでもいいが、天休斎にとっては、この里はそれこそ、命に代えても護ろうと思うほど大切なのだ。
 何より、夜光の心が、天休斎という「人間」を嫌いではない心情が、「置いていけば死ぬ」と分かっているものを、一人で逃げることを善しとできなかった。
 どうすればいい。どうすればこの人を助けられる。
 ──なんとかして、あれを遠ざけなければ。
 夜光の目が、すぐそこでうずくまっている闇蜘蛛を辿った。あれがここにいる限り、天休斎は逃げることが出来ない。だけれど夜光には、あれをどうにかできるような力など無い。
 ──でも。遠ざけるだけならば……。
 胸元に下がる鏡に、夜光は着物の上から手を辿らせた。
 終の涯の長が手ずから編んでくれた組紐に通した、小さな美しい鏡。それは半人半妖である夜光の「妖」としての姿、本性を覆い隠すまじないを封じ込めた鏡だった。
 角を封じられた今の姿では、夜光はほとんどなんの妖力も無い。だけれどこの鏡を割り、本来の姿と力を取り戻せば、あの闇蜘蛛を里から遠ざけることくらいは出来るかもしれない。いや、きっと出来る。
 考えるよりも先に、白い手が組紐を手繰り、鏡を引き出していた。迷う余地はなかった。
 夜光は小さな鏡の蓋を開くと、近くに落ちていた握れる程度の石を拾った。ただならぬ気配に気付いたのか、天休斎が目を開いて夜光を見るのが分かった。
 夜光はそれを見返ることはせず、銀の美しい鏡面に向かって、握り締めた石を振り上げた。
 長く封じていたものを解放するというのは、そら恐ろしくはある。そもそも、たとえ角と妖力を取り戻したとて、「堕ちた神」である闇蜘蛛に、正面からでは夜光ごときが太刀打ちなぞ出来るはずもないのだ。
 ──それでも、天休斎を見殺すことはしたくない。
 石の尖った部分を叩き付けると、ぱん、と、あっさり鏡は割れた。その音を聞いたと思ったときには、夜光は自分の身体にふっと熱が巡り、手脚が急に軽くなったような感覚にとらわれた。
 その熱さは、額に集中していた。強い眩暈がして、思わずきつく目を閉じる。
 不思議なほど不快感はなく、次に目を開いたときには、ほどけてゆくまじないを物語るように、自分の身体ががふわりとした雪明りのような燐光に包まれているのが分かった。
 思わず自分で自分の肩を抱き、震えるような吐息をこぼす。身体の奥から、とても心地良く強くあたたかな、白い焔に似た力があふれてくるのが分かる。それは額に集まり、指先にまで巡って、夜光を内から満たしていた。今まで閉ざされていた眼が開いたような清々しい爽快感を、夜光は覚えていた。
 かぶっていた被衣に、ふと内側から何かが引っかかった。夜光は白い手を持ち上げて、その引っかかりを探るように額にふれた。
 柔らかな髪の間から伸びる、二本の硬い感触があった。それは指先にじんとくるような、快い熱を宿していた。
 ──確かにこの身が夜叉の血を引くことを証し立てる、一対の白銀の角。
 それに被衣が引っかかって邪魔になるので、頭を覆う部分をはらりと後ろに落とした。天休斎の笛の音が一瞬狂い、目を丸くしてこちらを凝視してくるのを感じた。
 夜光は天休斎を見返ると、微笑んだ。
「あなたのことは死なせません。天休斎様」
 ──人間も悪くないと、あなたは少しだけ思わせてくれたから。

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