花衣に眠る (六)

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 障子を透かして、青白い月光が滲む中。ふ、と夜光が目を覚まして横を見ると、隣の寝床には誰の姿もなかった。
「……葵?」
 ついさっきまでそこに葵がいたことを示すように、寝具は若干寝乱れている。ふれてみると、体温も少し残っていた。
 月の位置からして、まだ真夜中だ。厠にでも立ったのだろうか。夜光は自分の寝床に戻って、また横になった。
 そう案ずることもあるまい、と思いつつ、葵の姿が見えないと、どうにも落ち着かない。そのまま、いくばくかの時間が過ぎた。
 再び、夜光は身を起こした。
 ──おかしい。厠に立っただけなら、いくらなんでも、もう戻って来ているはずだ。
 心配になって、夜光は白い寝巻き姿のまま、そっと障子を開けて部屋の外に出た。
 月明かりを浴び、ますます黒く光って見える縁側を素足で踏むと、思いのほかひやりとした。
 気配と足音を殺すようにして、そっと縁側を歩いてゆく。さして進まぬうちに、夜光は足を止めた。
 部屋のひとつから、紙燭らしき弱い明かりが漏れている。そこから、人の声が聞こえた。
 夜間であることを慮っているのだろう、聞こえてくる声音は控えめだった。ひとつは葵の声。もうひとつは、源之助の声だ。
 何を話しているのかまでは聞き取れなかったが、穏やかな調子だった。時折笑い声も聞こえてくる。密談、という雰囲気ではない。申し合わせたわけでもなく、何らかの流れで、かつてを知る者同士で語らい合うことになった……そんなふうに感じ取れた。
 ほっとしながらも、夜光はすっと胸に冷えた風が入り込んだような気がした。
 音を立てないようにその場を離れる。部屋に戻ると、寝具の上に座った。眠る気にはなれなかった。
 育ての親も同然だという源之助は、それこそ夜光よりもずっと長く、葵と関わってきた人間だ。葵もまた、深く源之助を慕っている。ましてや引き離されていた主従が再会したのだから、話すことは尽きないだろう。
 夜光が割って入るには無粋にすぎる見えない壁に、分かっていても、寂しさと不安が募る。葵に最もちかしいのは自分だ、という自負はあるけれど、それも揺らぎそうになる。
 源之助個人がどうこうというのではない。夜光が不安に思い、恐れてしまうのは、葵が「過去」に引っ張られてしまうのではないか、ということだった。
 夜光から見れば、源之助は葵の「過去の象徴」そのものだ。源之助と関わることで、「もう終わったこと」であるはずの過去に、葵は引っ張られてしまうのではないだろうか。放っておいたら、夜光には踏み入ることのできないところへ、連れ去られてしまうのではないだろうか……。
 それほど寒くはないはずなのに、身を包む夜気が急に冷たく感じられた。夜光は思わず自分を抱き締めた。
 そんなことは、今の葵ならばありえない。そう思いながらも、どうしても不安になる。終わったこととはいっても、葵にとって「過去」は、一生引きずるであろう深く重い楔だ。葵にその気がなくても、過去の方が葵を絡めとってしまうかもしれない。
「……どこにも、行かないでください……」
 もし葵が連れ去られてしまったら。夜光一人にされてしまったら。到底生きてなどゆけない。葵がいなければ、夜光には生きることに意味など見出せない。
 横になる気にもなれずに、夜光はずっと寝床に座り込んでいた。
 どれほど経った頃だろう。と、静けさの中で聞こえてきたものに、はっと夜光は顔を上げた。
 何か言い合うような声がする。葵と源之助だろうか。
 何だろう。胸がざわついて、夜光は再び立ち上がり、明かりの灯っていた部屋のほうへと向かった。
 近付くにつれて、聞こえてくる声は明瞭になった。聞き取るに不足無い場所まで来ると、夜光はじっと耳をそばだてた。
 ──やはり葵と源之助が、何かを言い争っている。
 あれほど親密に見えた二人なのに、何があったのだろう。夜光は柱の陰に身を潜めるようにしながら息を詰めた。
「──無駄死にではない!!」
 そこに、強く、葵の声がした。びくっと、思わず身が固くなった。
 葵のこんな声は、聞いたことが無かった。あまりに悲痛な、剥き出しにされた魂が苦悶に身をよじらせているような声。
 何の話から、こんな会話になったのかは分からない。だが聞いているうちに、うっすらと夜光は悟った。
 ──源之助は、葵を再び「主」として立てる心積もりでいたのだ。いや、思えばそれは最初からだった。源之助にとっては、葵はあくまで「仕える主」のまま。再会を果たしたのならば、かつて不当に地位を追われた主を立て、盛り返そうとするのは、至極当然のこと。
 残酷なのは、葵と源之助の認識が、既にあまりにも食い違ってしまっていることだった。
 葵は既に、過去を切り離して異なる道を歩き始めている。だが源之助の時間は、五年前から止まったままだ。
 誰のせいでもない。源之助が悪いのでも、まして葵が悪いのでもない。いうなれば、そういう巡り合せだったというだけ。
 ──でも、葵はきっと、ひどく自分を責める。
 ここで源之助を拒むことは、葵にまた深い傷をつける。誰に何と言われようと、葵自身が決して自分を許せない。葵は、そういうひとだ。
 葵と源之助の遣り取りは、そのあとも続いていた。言い合いはおさまったようだったので、夜光は気付かれないように、その場を離れた。
 部屋に戻り、寝具の上に座ってしばらく待っていると、静かに縁側を歩いてくる足音が聞こえてきた。
 障子に見慣れた影が映り、葵が部屋に入ってくる。昼の間は一つに結い上げている長い髪が、青白い月明かりを受けたその肩に流れ落ちていた。葵はいつものように、優しく微笑んだ。
「起こしてしまったか。すまないな」
 寝具の上で正座をしていた夜光を見ても、葵は驚かなかった。あれだけの大声を出して言い合いをしていれば、夜光が目を覚ますのも当たり前だと思ったのかもしれない。
「いいえ」
 夜光は座ったままで首を振った。
 部屋に入り、歩を運んできた葵は、しかしそこで崩れるように膝を折った。腕が伸びてきて、夜光を抱き締める。
 しがみつくような強い力に、夜光は少し息を飲んだ。「いつも通り」を装おうとして、しかし夜光を見た途端にそれが出来なくなってしまったような葵に、思わず抱き返す腕に力がこもった。
「……これで、良かったんだろうか」
 夜光の肩に額をつけたまま、やがて葵が呟くように言った。
 月明かりに艶を帯びて流れ落ちる葵の髪を、夜光はそっと、梳くように撫でた。
「……良かったのだと、思います」
 少し考えて、夜光は静かに、だがはっきりと答えた。
 源之助を選び、過去の続きに戻ることは、間違い無く葵を再び血煙と業火の中へ向かわせる。そんなことはさせられない。夜光には、断じて善しとは出来ない。
 義理や情けを持ち出すなら、源之助の方に分があるくらいの話なのかもしれない。けれど、どれほど源之助やその仲間達に恨まれても、憎まれても、葵とその未来を譲ることは、夜光には出来なかった。
 ──葵が生きたいと望むことは、大事な者達に生きて欲しいと望むことは、そんなに罪なことなのだろうか。
 葵の髪を撫でているうちに、夜光の胸にふと、そんな思いがこみ上げた。
 それを罪というのなら、人の世とはなんと無慈悲で残酷なのだろう。
 葵が顔を起こし、夜光を見ると、小さく笑った。それは泣いているようにも見える、ひどく切ない笑顔だった。
「……そうか」
 呟くように言った葵の頬に、夜光は白い指先を伸ばしてふれた。
 少しうつむいていた葵の顔を、こちらに向けさせる。葵を見つめながら、夜光は静かに微笑んだ。
「私は、いつまでも、どこまでも、おまえさまと一緒です。おまえさまを喪えば、夜光は生きていられません。どうか、それを忘れないで下さいませ」
 葵が生きたいと望むことが罪なら、葵を愛しく思い、共に生きたいと願う夜光もまた、罪人だ。それなら、それでかまわない。葵を苦しめて死を迫る、そんなことが人の世では当然だというのなら、そんな人間たちに葵を渡しはしない。
 そんな夜光に、そうか、と葵はもう一度呟いた。
 夜光が葵を抱き寄せると、葵もそれに逆らわず、夜光を抱き締めた。

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